選句期間が終わったので、今朝、花拾い句会の選句結果を公開へと切り替えました。花拾い句会では「特賞」「佳作」等の順位付けは行わず、「美句」、「気になる句」、「目から鱗句」、「Happy句」など、感覚的な選句項目から、何句でも取って良いことになっています。
また、自分が選んだ句には、「どう感じた・共感した」かのコメントを添えるのですが、それを読んでいるだけでも、「わ~、そういう感じ方もあるのか!」といった驚きや、「自分と全く同じように感じてもらえてる!」などの共感の歓びが味わえます。
わたしは常々「読める人は詠める」し「詠める人は読める」と思っています。回を重ねるごとに、それは顕著になっており、「俳句はほぼ初めてなんです~」と遠慮がちだった方が、どんどん素敵な言葉の絶景を紡いでいます。
技芸やアート、文藝というのは、いかに”佳き出逢い方”をしたかで、後々の飛躍が決まってくるような気がしてなりません。
前にも書きましたが、ただ好きで続けてきた写真を、ある時ふと思い立って「一応、学んでみるか」と通った写真教室の水が合わず、写真そのものが嫌いになりかけた時期がありました。
今さらですが、指導をしてくださる側からすれば、撮影の「基本」を押さえておくことは大事だろうし、またその土台があるからこそ、「型」を破ってもいけるのだと理解できます。
ただ、出会い方とタイミングがわたしには合っていなかっただけのこと。結局、教室は続かず、「好き」をやりつくした数年後、わたしは写真の「基本」を再び改めて学ぼうとするのです。でも、その時の吸収する力は、以前とは比べものにならないほど強かったように思います。
花拾い句会でも、「切れ字」や「季語」の使い方が多少不器用だったとしても、そこを敢えて指摘することはしていません。それよりも、”いま、ここ”で出逢えた自分の世界をたったの17音で外に向かって表現する歓びを感じられる方がずっと大切だと思うから。そして、誰かが表現した世界を、自分の世界と共存させて面白がったり、違いを楽しんだりしていくこと。その力を先に育ててからでも、「型」や「技法」を学ぶのは遅くはないと思っています。
これまでに同じ目標を掲げながら、「好き」という想いの権化のような者たちに、何度軽々と追い越されてきたことでしょう・・。「好き」の根っこを最大限に張り育ててから、そこに後から「型」がしっかりついてきたときにスパークする才能の凄まじさをわたしは知っています。
ちょっと型破りかも知れませんが、この句会からとんでもない逸材が誕生するのでは?と近頃ドキドキしています。
愛着に傷つきを持つ方のピアグループ
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写真を眺めてほっと一息^^