わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

花拾い読書会開催しました

 

 先週の金曜日は、花拾い読書会オンラインを開催しました。
ご参加くださった皆様、ありがとうございます。

 

金曜日の花拾い本棚は、以下の4冊でした。

 

 

 

「人生フルーツ」という映画のモチーフになったご夫婦の著書だと初めて知りました。「人生フルーツ」も気になりつつ、まだ見ていない映画なので、先ずは原作から読んでみたいと思いました。

 

 

 

 

村田沙耶香さんは「コンビニ人間」があまりにも有名ですが、この「信仰」の切り口は、わたし自身、かなり共感できそう・・・という予感が!人間の弱さや本質を、鋭く描写した作品。こちらも読んでみたいと思います。

 

 

 

 

 

そして、夏井いつき先生の「365日季語手帖」。
実はこの本の存在は知っていたのですが、歳時記はもう何冊も持っているし・・と購入するに至らなかった本でした。でも、お話を伺ってみると、この本には「投句」のシステムがあって、選句していただくと、次の年の本に掲載されるというのです!ご紹介いただいたTさんは、こちらの本を購入以来、毎年掲載されているというからすごい!

 

 

 

 

そして、わたしがご紹介したのは、中野信子さんの「シャーデンフロイデ」でした。何故人は、人の不幸を喜んでしまうのか?中野さんはそれを、本人の性格の問題というよりは、「オキシトシン」や「愛着」の視点から分析していて面白いのですが、わたし自身、「でも、なぜ、ここが結びつく?」と疑問だった点も多かったのですが、参加者の皆さんと話すうちに、「だからか~!」みたいな結論に着地しました。有名な心理学実験が数々ご紹介されているので、興味のある方はぜひ。

 

 

 読書会の面白さは、自分ひとりでは絶対に巡り逢えなかった本に出逢えることだと思っています。本との縁って人との縁にとても似ています。

 

よく「その人のことを知りたかったら、その人の本棚を見よ!」なんて格言もありますが、選ぶ本は、読書をする人の人生の結晶だからなのかも知れません。

 

 

ということで、来月も花拾い読書会(当分はオンラインかな~^^;)を開催したいと思っています。開催のご案内は、こちらのブログか、私のインスタアカウントからしますので、ご興味のある方は、フォロー宜しくお願いします^^

 

 

 

 

 

 

 

きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

傾聴・カウンセリングお申込みフォーム
(60分 3000円)

 

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写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき

 

 

花拾い句会等の開催のご案内はこちらから・・。

 

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花拾い読書会開催します



 今年は再開します!と言っておきながら、いっこうにご案内が出来ずにいた読書会ですが、仮に参加者さんが誰もいなかったとしても、「やります!」って言っておきたくて、ひとまず告知だけしてみることにしました!

 

 

 

 

 2月3日(金曜日)午後14時から、オンラインzoomでの開催となっております。(参加希望者の方には後ほどURLを送ります。)

 

持ち物は、最近読んだ本。感動した本でも、気づきを得た本でも、なんでも構いません。ただし、漫画及び特定の宗教や思想を強要する類に当たる本は、この場ではご遠慮くださいね。m(__)m

 

定員は4名までとさせていただきます。(1名様から開催します
 
 
おひとりさまの持ち時間は、だいたい15分~20分くらい。

その本は誰が書いたどのような趣旨の本か?
ご自分が読んだ本のどの部分に感動したのか?

どこに気づきを得たのか?

などを、思いのままに語ってください。^^
発表の方法は自由です。

上手くまとまらなくてもOK!ゆる~い読書会というより、読書感想シェア会にできたらと思っています。本から得た気づきを、自分ひとりだけのものにしておくのは惜しい!
誰かにおすそわけしたい!
そんな軽い優しい気持ちでご参加いただければと思います。

 

ただし、他の方がお話をしている時には、静かに傾聴すること。
話し手が思ったこと、感じたことを間違っていると非難をしたり、改めるように促すことは禁止とさせてください。

また、おひとりで話過ぎないよう、ほんのちょっぴりお心がけくださいませ。当日は、私の方でタイムキーパーをさせていただきます。^^

 

 

ご参加希望の方は、以下のフォームより、お申込みください。
メールアドレスの間違いなどくれぐれもお気をつけくださいね^^

 

↓  ↓  ↓

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ちなみに私は、こちらの本をシェアしたいなと思っていますよ~^^

 

 

人の不幸を喜んでしまう心理とは?!
心の鬼退治ってそもそも出来るのかな?

節分にぴったりなテーマかも?!

 

 

きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

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句友さんが送ってくれた小冊子

Sonyα7Ⅳ with Sony135㎜ f1.8 GM

 

 先日、昨年の夏以降、それまで日常の中で、心の拠り所、(少なくとも)安らぎ(だと感じられていた)だった句作が、どうにも上手くいかなくて・・と、句友さんに打ち明けたところ、「私が通っている短歌の講座のテキストなのだけど・・・」と、小冊子を1冊送ってくれました(いつもここぞって時に助けてくれるAさん、本当にありがとう)。

 

 その中の第3章”短歌がつくれないとき”という箇所に、真っ暗闇の中で見つけた一筋の灯のような文章を見つけたので、少しだけ引用してご紹介したいと思います。

 

歌人 黒木美千代さん

 

 

 「短歌を作る」ということは、どんなに日常的な歌を作っていると見えても、非日常の行為です。私たちは毎日日常的な暮らしの時間を積み重ねながら、歌を作るひとときには、日常と違った時空に飛躍しているのです。そのとき、私たちは生活する「私」を短歌を作る「私」に押し上げて、歌を作っています。スランプとは、この跳躍がうまくゆかなくなったときでしょう。生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしているのかもしれません。

 

 

 この部分を読んだ時、何か胸につかえていたものが、すっと通ったような気がしたのです。

 

特に、一行目の

 

「短歌を作る」ということは、どんなに日常的な歌を作っていると見えても、非日常の行為です。

 

この部分。「短歌」のところを「俳句」に置き換えてみる。

 

俳句を始めて3年目。いつしか自分の中に、「俳句を詠む」という行為は「日常」であらねばならない、その在り方こそが「俳句を嗜む道」である・・みたいな気負いが生まれていたことに気づかされました。

 

いやいや、「非日常」の行為ですよ!とベテランの黒木さんに言われて、なんだか目が覚めたというか、私ったら自分をおよそ身の丈に合わない理想の鋳型にはめよう、はめようとしてきたのかもしれないと思いました。そもそも、俳句を詠むと言う行為が「非日常」だったから、楽しかったのに、です。

 

また、

 

私たちは生活する「私」を短歌を作る「私」に押し上げて、歌を作っています。スランプとは、この跳躍がうまくゆかなくなったときでしょう。生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしているのかもしれません。

 

この部分。

 

生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしている

 

 

には、心当たりがあります。
昨年の夏以降の家族の病気、引っ越し、手術、入院、秋からの新しく始まった仕事で、「日常のわたし」は覆い尽くされていました。
「生活する私」には自分を「俳句を詠む私」に押し上げる体力が、残っていなかったのでしょう。歳時記を読む、優れた俳人の句を味わう、散歩する、人と会う・・など、自分なりのインパクト(俳句の種)は多かったのに、それを着床させるだけの基礎体力がすっからかんだった・・というわけです。

 

 

それなりの努力をしているにも関わらず、それが実っている気がしない、それゆえのスランプと言うのは、原因を探すとドツボにハマっていきますが、まさにそれをやっていました。やり続けていたと言ってもいい。(笑)

 

 

生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしている

 

 

残念ながら、この状態は今年も続きそうですが、この部分への耐久力が回復してきたら、また詠めるようになるのかも知れません。

 

 

それまでは焦らず、これまで同様に、俳句を「非日常」の楽しみの縁として大切にしていきたいと思いました。俳句人生、この先、まだまだ長いですからね。^^

 

 

 

きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

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何かを信じることの尊さと危うさ

Sonyα7Ⅲ with Sony20㎜ f1.8 G

 

 

 今朝はインスタで以下のような投稿をしました。

 
 
 
 
 
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A post shared by さとうみゆき (@miu___sato)

 

 

以前にもブログでご紹介した、中村文則著の『教団X』についてです。

 

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

インスタでは長くなるので割愛しましたが、加筆したいと思います。

 

わたしは、カルトや似非宗教による悲劇というものは、

 

 

我々に元々備わっている、「何かを信じる」ことを「快楽」だと感じる性質と、それを利用し、悪用する側とのマッチング(需要と供給)によって生まれるのではないかと考えます。

 

 ここで注意したいのは、「何かを信じる快楽」というのは、誰にでも備わっているという事実です。つまりこれは、誰もがカルトや似非宗教にハマる土台、可能性を持っているということなのです。

 

 

 そう考えると、「あんなものにハマって大切なお金を溶かすなんて・・・」と被害者を責めることはできなくなります。やはり悲劇の諸悪の根源は、人間の「何かを信じる快楽」の素質に付け込んで、利用してくる輩だと言えるのではないでしょうか?

 

 

 現に、大好きなアーテイストの推し活などに没頭しながらも、だからこそ日々を生き生きと過ごせている人たちだって大勢います。ただここで、そのアーテイスト側が、ファンの「自分を信じる快楽」を利用して、特定の健康食品のネットワークビジネス等の勧誘を始めたとしたらどうでしょうか?推し活の意味合いが、変わってくると思いませんか?

 

 「何かを信じる」気持ち。それは尊いものです。そして、その気持ちに自分のすべてを委ねることは、一種のトランス(快楽)をもたらします。ただ、そこに溺れてしまわないこと。そこに自分の意思、選択の基準の余地・遊びを必ず残しておくことは、忘れずにいたいものです。

 

 

きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

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俳句で自律神経を調えられるのでは?!と思った理由


 わたしが最初に「俳句には何らかの心理療法的な役割や癒しの効果があるのではないか?」と考えるようになったきっかけは、以下のような理由からでした。


↓  ↓  ↓

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

この他にも、エリクソンが言うところの基本的信頼感*(*養育者への人格的な信頼感を通し、自分がこの世に存在することを肯定的に捉え、人生には生きる意味や生存する価値があり、世界は信頼するに足るものだという感覚)が希薄なまま育った愛着の傷を持つ人たちにとって、対人での信頼関係の構築は困難を伴うものですが、自然や四季、植物や動物たちといった、自分を取り囲む世界とのつながりを作る方法として、季語を詠む俳句はぴったりだと思いました。

 

 

また、IFSの観点からも、感情をろ過した上で詠まれる俳句は、特定のパーツに感情を乗っ取られることを防ぐ効果があるのではないかと考えられます。

 

↓  ↓  ↓

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

そんな中、先日、夏目漱石が正岡子規の提唱した「写生文(明治40年)」というジャンルについて次のように述べている文章を見つけたのです。

 

 

写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視る態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。(中略)子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違いである。親と子供とは立場が違ふ。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。(略)写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。

 

 

 

ここで言う「大人」とは、副人格の感情からブレンド解除できている大人の自分(セルフ)子どもとは、インナーチャイルドであったり、その子を守っている複数の副人格(パーツ)とは言えないでしょうか?俳句とは大人が泣いている子供の感情に巻き込まれないようにして、客観的に叙するものだと漱石は言っているのです。これ、まさしくIFSのセッションで行っていることと、本質は一緒なのです。俳句を詠み始めてから、内面が整ってきたのは、わたしの思い過ごしや、気のせいなんかではなく、しっかりとセオリーに則った結果だったのではないでしょうか?

 

 

 

トラウマ治療に限らず、あらゆる心理療法の土台として、基本的信頼感と愛着、また「二重の気づき」が必要となることが言われています。

 

『トラウマによる解離からの回復』の著者、ジェニーナ・フィッシャーは、「二重の気づき」について以下のように述べています。

 

 

「二重の気づき」とは意識の複数の状態を俯瞰できるということです。クライアントは現在と、過去と関連する顕在及び潜在意識の両方に居続けられます。子どもパーツたちの痛みを伴う感情を感じながら同時に、脊柱の長さや安定感、呼吸の流れ、心臓の鼓動、地面に足を感じることなどで、感情を許容できるようになります。

 

 

 

 簡単に言いうと、「今悲しんでいる自分に気づいている自分にも気づいている」という状態のこと。俳句はこの状態を、その性質上容易に生み出してくれるのです。

 

 

 俳人の池田澄子は著書『本当は逢いたし』の中で、

 

幸せにつけ不幸につけ、俳句は私をシャンとさせた。わが幸不幸を他人事のように眺める力を俳句がくれた。

 

と書いています。表現こそ違いますが、「二重の気づき」を端的に表している文章と言えないでしょうか?

 

 単純に楽しい上に、自律神経の働きを調えてくれる可能性が見えてきた「俳句」と言う代物に、ますます興味が深まってしまいそうです。

 

 

 

明日16日、オンライン開催で14時からです^^



hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 

 

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ゴールデンウィークが終わりますね

 

 

 今日でゴールデンウィークも終わり。明日からようやく5月の日常が始まるな~と言う感じがしています。まとまったお休みが長かったせいか、弛緩したものをどう引き締めれば良いのか分からなくなっています。^^;

 

 

 ふたり展の準備も「この辺りでいい加減区切りをつけねば」とは思うのですが、なかなか手を引くことができない往生際の悪い自分がいます。展示が終わったら燃え尽きてしまいそうで怖い~^^;

 

 

 この連休は、あちこち探し求めていた「中村苑子」の句集が手元にやって来たので読んだり、大好きな篠田節子さんの小説を読んだりもしていました。

 

 

 

地元の図書館にはなくて、都内の他の自治体から取り寄せてもらったのです。

www-std-pub02.ufinity.jp

 

 

 中村苑子の句は、何と言うか、「他人じゃないみたい」と思ってしまうんですよね。普段から、わたしは感じていることや考えてることを人からあまり理解・共感されにくいのかな・・?みたいに感じてしまうことがあるのですが、中村苑子の句は「どうしてわかるの?!同じ風景見てた!」みたいな一致がたくさんあって、感覚の孤独が癒されると言うんですかねぇ・・・。理屈じゃないですが、ほんと出会えてよかった~って思ってしまいました。

 

なんだかぞくぞくしませんか?^^

 

貌(かお)が棲(す)む芒(すすき)の中の捨て鏡

桃のなか別の昔が夕焼けて

鍵穴を抜けてたましひ遊ぶ春

麗かや野に死に真似の遊びして

 

 

 篠田節子さんの小説ですが、今回は「仮想儀礼」を読んでました。

 

ざっくりとあらすじを言うと、無職の2人の男が「宗教はビジネスになる」といって、自分たちがかつて描いていた「ゲーム」の筋書きを元に宗教を立ち上げてしまうんです。思いがけずその組織がどんどん大きくなっていって、メジャーな宗教になるんですが、最期は悲惨な結末が待ってる・・というお話。

 

篠田節子は宗教も含む「概念のビジネス」を第四次産業と小説の中で述べているのですが、「信じる」ということの闇の部分を巧みに書き切っていて、長編とは言え、スイスイ読めてしまい、その筆力に脱帽です。

 

宗教とは言わないまでも、個人が自分の考えや思想を、メデイアツールを自由に使って発信できる今の時代は、明らかに「概念ビジネス」の絶頂期と言って良いでしょう。篠田節子がこの小説を書いたのはもう14年も前のことですが、そのころに「概念ビジネス」がもたらす危険な側面を、これほどリアルに予想していたことにも驚かされます。

 

 

 自分が打ち立てた「教義(思想)、旗印」が、ある時勝手に一人歩きし始め、魔物となって今度は産みの親である自分をのみこもうとする。似非教祖は最終的には、アンチによってではなく、熱狂的な信者によって破滅させられていく・・という皮肉は、人間が持つ「想・創」の力をベクトルを間違えるとどうなってしまうのか?という警告を示しているのでした。

 

 

 篠田さんの小説は、世の中のタブーに緻密に切り込んでいく。次は何を読もうかな~。読書は展示が終わるまで、しばらくはお預けかな~。^^

 

5月に写真展を開催します

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


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愛着トラウマに苦しむ人は左脳をより多く使ってみる

 

 先日、日本心理学会から申請していた認定心理士の認定証がようやく届きました。

 

 

 この認定証を貰うために、現役時代は120%文系女子だったわたしが、統計学に必要な複雑な数式覚えたり、エクセルでデータ分析をしたり、月に何本もの実験レポートを仕上げたりしたわけで、本当に人間、”為せば成る”ものだなあと感慨深い思いでした。

 

 

 振り返ってみると、わたしが人生で抱えてきた「生きづらさ」が徐々に寛解に向かったのは、この二度目の大学生活が影響しているのではないかと思っています。情報としての正確な「心理教育」に触れる機会が増えたことも理由のひとつだとは思いますが、
この2年、数式・データ・分析・記録・執筆・・・と、主に左脳を使わざるを得ない状況に身を置いたことも大きかったのではないかと考えられます。

 


 そう思ったきっかけは、IFS(内的家族システム療法)を学んでから出逢ったこちらの本でした。

 

先日、こちらの記事でも書きましたが、

 

↓  ↓  ↓

 

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トラウマティックな出来事というのは「右脳」にイメージとして記録され、あたかも冷凍保存されたごとく、色あせないままとなっており、外から何らかの刺激を受けるたびに、それが自動的に活性化されて本人を苦しめます(フラッシュバック)。回復のためには、「それはもう、いま、ここでは起きていないこと。いま、自分は安心安全な場所にいるのだ」ということを、現実生活を送る「左脳」で理解する必要があるのです。

 

そして実はあまり知られていませんが、物事を「肯定的」に捉えられるのは、右脳ではなく、左脳の論理的な働きがあってこそなのです。「右脳」は逆にネガテイブなことを記録するパーツです。

 

 

 ところが、愛着トラウマを持つ人と言うのは、この「右脳」と「左脳」とをつなぐ「脳梁」の働きが衰えており「右脳」で捉え続けている間違った「概念」が修正されず、なかなか離れることができません。

 

 

 そのため、愛着トラウマに苦しんでいる方と言うのは、自身の「生きづらさ」の正体が分からないままに、恐らく何年も苦しんできているはずです。そして、自分が調べられる限りすべての方法・手段を試してきたのではないでしょうか?わたしも高級車がどうにか1台買えるくらいの資金をつぎ込んで、本当にいろいろやってみました(苦笑)。その探求の過程で、〇〇認定講師とか、〇〇養成講師と言われる資格を、結果いくつも所持してしまいましたが、どれについても今となっては使っていません。

 

 

 で、どうしてそんなに資金をつぎ込んでまで得た諸々の資格がその時の自分には効果的に働かなかったのか?と言うと、それらがすべて「右脳」を重視した手法だったからではないかと今は思っています。つまりそれらはがどちらかというと、「イメージ」や「感覚」を軸に組み立てられたプログラムだったということです。

 

 断っておきますが、「右脳」に働きかけるメソッドが良くないと言ってるのではありません。愛着のトラウマを持っている人にとっては、ひょっとすると「右脳」ではなく、先ずは「左脳」の働きを強化することから行った方が良い場合があるのではないか?「左脳」が担当する、”肯定的に予測可能な日常を送る”と言う機能の土台が築けてからでも「右脳」を開発するのでも遅くないのではないか?という提案・仮説です。

 

 

 そもそも愛着のトラウマ(発達性トラウマ)は、”予測不可能”な状況に繰り返し置かれることで、強化されていきます。例えば、一貫性がなく、いつ怒りだすか分からない親や、突然無視がはじまる学校でのいじめなどがそれです。「安心・安全」と言う時の、「安心」が欠けた状態です。「安心」とはつまり、「予測可能」と言う状態のことです。

 

 それに対し、「右脳」を重視したメソッドやワークというのは、ある意味「予測不可能」なことを、ワクワク・ドキドキしながら楽しんでいきましょう!というアプローチをします。 愛着のトラウマがない人にとっては、これは自己実現を促す素晴らしい機会となるのですが、そうでない人にとっては、イメージの活性化などから、さらに「右脳」のトラウマを強化する機会となってしまう可能性が高いというわけです。

 

 

 では、「予測可能」の土台を築くのにはどうしたら良いのでしょうか?わたしは強制的に「データがこうであれば、こうなるはずである」という統計の世界に身を置き、「予測可能」の体験を積み重ねていったのですが、もっと簡単なこと・・例えば、小学生の算数ドリルを解くことなどもありなのではないかと思います。

 

1+1=?

 

2+3=?

 

大人になったわたしたちには、当たり前すぎますが、「2だよね!」「5だよね!」という予測可能な状況を体験することを繰り返すことで、自律神経系の中には、「何か問題が起きても、自分でちゃんと対処できる。これは予測可能なことだ!」という回路(筋力?)がちゃんと再編成されていきます。

 

 

以前、どこかの記事で、散歩に行ったら、「同じ場所に同じ時間だけ座る」を繰り返してみてください・・というのも書きましたが、それも「予測可能」の状況を脳に体験させてあげる効果があるからです。ちなみにこれ、わたしも1年以上繰り返しました。そういったすべての働きがシナジーとなり、「安心=予測可能」に慣れたのかも知れません。愛着のトラウマを持っている人は、「安心ではない=予測不可能」がデフォルトのために、そちらの方に脳が慣れてしまっていて、逆に「安心」を享受できないのです。だから、せっかく上手く行っている関係から、突然身を引いてしまったり、わざわざ自分を不安定にするような人間関係に足を突っ込んでしまったりする・・・。涙

 

先ずは「安心」に慣れていきましょう。「安心」に慣れるって、やってみると分かりますが、本当に大変なことなのですよ^^;。でも、必ず、必ず、生きることが、今より少しずつ、楽になっていきますから・・。^^

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


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罪悪感と恥はまったく別のモノ

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 「罪悪感を手放すと人生が上手くいく」

 

このフレーズに、自分を癒す旅の中、これまで何度か出逢ってきました。当時自分にとって「罪悪感」だと思っていたことの内容には、以下のようなものがありました。

 

「どうして私は××さんに比べて〇〇ができないんだろう?だから劣っている。」
「〇〇できないから(〇〇であれないから)、わたしにはそこに居る価値がない」
「もっとわたしが~~なら、人に好かれ大切にされるのかな」etc.....

 

 

これらをわたしは「罪悪感」と認識し、自分の意識から完全排除できたあかつきには、「自信」がついたり、自分を好きになれるのではないか?と思っていました。

 

 

 ただ、この「罪悪感を手放すと人生上手くいく」という視点を持ち続けていると、必ずある時点で、「それって、本当にそうなのかな?」という矛盾にぶち当たるのでした。例えば、明らかにこちらの不手際でクライアント様を失望させてしまった時や、自分の采配ミスで、仕事仲間に迷惑をかけてしまった時などです。

 

「あ~、申し訳ないことをしたなあ・・・」

 

この「罪悪感」を手放すというのは、どういうことなの?
「自分は悪くなかったんだよ」と開き直れって意味なのかな?
でも、それって何だかおかしいよね?

 

で、挙句、「自分の責任でミスをしたのに、それをなかったことにしようと試みている私って、なんて最悪な人間なんだろう!」と、奇妙な自己卑下のループの深みに絡めとられてしまうのでした。

 

 

 

 この往年の矛盾がすっきり解けたのは、先日もご紹介した、ブレネー・ブラウンの、『本当の勇気は「弱さ」を認めること』のおかげでした。

 

 

著書の中では、「恥」と「罪悪感」と「屈辱感」と「きまり悪さ」の違いについて以下のように述べられています。

 

 

恥と罪悪感の違いは、「私は悪い人間である」と「私は悪いことをした」との違いとするのが一番分かりやすい・・・(中略)たとえば、あなたが正午に友人とランチの約束をしたのを、すっかり忘れていたとする。12時15分、あなたが来ないのを心配した友人がレストランから電話をかけてくる。そのときのあなたのセルフトークが、「私ってなんて間抜けなんだろう。友達として最低最悪、ダメな人間だわ」なら、それは「恥」の感情だ。「しまった。とんでもないことをしてしまった」なら「罪悪感」だ。私たちは、恥を感じると、何か、または、誰かのせいにしたり、自分の過ちを正当化したり、心にもない謝罪をしたり、逃げ隠れしたりして、身を守ろうとすることがある。・・・(中略)自分の行動をわび、償い、自分の価値観に反する行動を変える原動力となるのは、ほとんどの場合、恥ではなく罪悪感の方だ。自分の価値観に反する行動をして矛盾に気づいたとき、私たちは罪悪感を覚える。それは不快な感情ではあるが、プラスになることが多い。この罪悪感は恥と同じくらい強い力があるが、罪悪感が建設的な方向へと働くのに対し、恥は破壊的な方向に働く。恥は「私は変わることができるし、もっと良い行動がとれる」という自己への信頼感をむしばむのである。

 

 

 

この部分を読んだ時、私がずっと手放したいと思っていたのは、「罪悪感」ではなく「恥」の感覚だったのだ!と腹落ちしました。そして、かつて自分を癒すためだからといって、「罪悪感はぜんぶ手放すんだ~!」と宣言し、「人に借りたお金は返さなくていい!そのままの自分でOK!」、「待ち合わせ時間に遅れる自分もありのままの自分だからOK!」としていた人たちに抱いていた違和感の謎も解けました。なぜなら、それこそが「恥」の破壊行動による暴走だったからです。

 

 

適切なタイミングで適切な「罪悪感」を持つことは、自身を癒し、自信をつけるためには必須なのです。翻って、「恥」の感覚というのは、幼少期から影響を及ぼす”トラウマ感情”と切っても切れないものですが、この「恥」へのアプローチこそが、本来は検討され、注目されるべきなのでしょう。

 

 

これは「恥」からの感情だろうか?
それとも「罪悪感」だろうか?

 

 

この頃、IFSのセルフセラピーが定着してきたおかげで、「恥」と「罪悪感」の区別を観察できる機会がどんどん増えてきました。そして

 

「行動の成功・不成功=人間性への評価」

 

という自責的既成概念の呪縛が解かれ、自分が至らなかった部分には適切な罪悪感を持って、慌てず、騒がず、責めず、淡々と対処できるようになりつつあります。

 

 

「罪悪感」と「恥」をごちゃまぜにしなくなると、
それまで見えてこなかったことが、見えてくるかも知れません。

 

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5月に写真展を開催します

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


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自己開示の境界線の引き方について

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 ”世間話”って得意ですか?わたしは、今でこそ、割と普通に出来るようになりましたが、以前はどちらかと言うと苦手な方でした。^^;否、”苦手”というよりは、「それって何か意味あるの?!」と思っていたと言う方が精確かも知れません。心の中ではいつもこんな風に呟いていました。

 

 

 「だって、相手と親密になりたいのなら、天気がどうとか、あそこのお店が美味しかったとか、上っ面の”回りくどい”ことを長々話していないで、自分の人生に起きた重大な出来事に直面した時に、どう行動したのか?どう感じたのか?どんな心情を物事に対して持っているのかについて”本音で”話した方が、ずっと有意義だし、手っ取り早いのになあ。」

 

と。

 

実はこれ、一見、相手に対して望んでいることのようであって、今振り返ってみると、相手と親密になりたいと思った時に、自分でも当たり前のようにしてきたことだったように思います。で、実際のところ、それをしてみて相手との関係性はどうだったか?というと、あくまでわたしの場合ですが上手くいったかのように思えた場合ほど、後にその関係性が破綻していることの方が多かったような気がします。そしてなぜ上手く行かなかったのかの要因が、愛着のトラウマの傷にあると分かった時には、それまでの謎がいっきに氷解していく心地がしました。

 

 

 私も含め、愛着のトラウマの傷を抱えて来た人たちと言うのは、ありのままの自分の想いや感情を「それでいいよ」と受容された経験値が圧倒的に足りません。足りないというより、そこを否定されたり、悪くすると、それをすることでかえって虐待やネグレクト(情緒的な類も含む)を受けてきた場合が多いので、自分の身を守るために、率直な意見や想いを表現することを、自律神経系を巻き込んで抑圧する術を身に着けています。でも、だからこそ、「この人は安全そうだ」と一瞬でも感じられた人には、人一倍、自分のすべてを理解して欲しいという欲求が漲り、爆発するのです。しかも、相手が「明日も、明後日も」自分に好意を向けてくれているという持続的な関係性に対する信頼と確信の土台がないため、「今しかないかもしれない。今話さないと、次はないかも知れない」と切迫し、世間話など流暢なことを話しているどころではなくなってしまうのです。

 

 

 で、結果どうなるかと言うと、「わたしのあの時のあんなことや、こんなこと、あなたには全部全部知っていて欲しい。」とばかりに、お天気や好きなお店の話題をすっ飛ばして、自分の最もパーソナルでデリケートな話を、前置きになしに始めてしまったりする。^^;そのようにされて、安定して会話を続けられるのは、恐らくは心理職の心得がある方か、余程器の大きな人格者か、さもなくば、これ幸いと弱みに付け込んで利用し、搾取してやろうと企む者たちでしょう。愛着のトラウマを負った人には、残念ながら、本当の意味でこの「安全な人」と「危険な人」との区別が難しいのです。時にはそれが逆転してしまっている・・なんてこともしばしばです。どうして自分はいつも人から利用されたり搾取される人生なのだろう?と思っている方は、この”愛着の傷”を正しく理解し、見立ててくださる専門家と1日も早く繋がってください。必ず快方に向かいますので。

 

 

 確かに、お互いの弱い部分や、抱えている傷を話すことで、関係性が親密になるというのは否定しませんし、それがないと、関係性が深まらないことも事実です。ただ、心理学の研究によれば、浅い関係性での自己開示は、かえって相手の心を閉ざし、遠ざけてしまうことの方が多いというデータもあるため、注意が必要だと考えられます。だからこそ、いきなり最初から自分の弱みを見せた時に、(専門家でもない)知り合って間もない相手が、異様な同調や共感を示してきた場合、「やっとこの世界で唯一の自分の理解者を得た!」などとうっかり思い込んでしまうのは危険なのです。

 

 

 

 

 では、親密な自己開示をする相手をどう見極め、自己開示を行う際には、何を気を付ければよいのでしょうか?先日もご紹介した、ブレネー・ブラウンの著書『本当の勇気は「弱さ」を認めること』の中に、関係に書かれていましたので、そのまま引用します。

 

 ブレネー・ブラウンは、

 

”ヴァルネラビリテイ(傷つく可能性のあること)は、互いの信頼関係に基づくものなので、境界線を必要とする・・・(中略)信頼は時間をかけて一つずつ積み上げていくものだ。見境なく「何もかもさらけだす」ことは、逆に、本当の自分を知られるのを防ぐ自己防衛の手段にすぎない。自分をさらし者にすることによって満たされない欲求を満たそうとしたり、注目を浴びようとしたりするのは、ヴァルネラビリテイとはおよそ似ても似つかない。無防備さを「利用する」ことと無防備に「なる」ことは同じではない・・・”

 

とした上で、自分自身のことを開示する際に、何を話すか話さないかの境界線の引き方を以下のように述べています。

 

 

①すでに克服している揺るがない思いで話せることだけを話す。プライバシーに関わることや、まだ傷が癒えていないことは話さない。

 

②何かを教えるため、何かの前進のために自分の体験を披露するのは健全だし効果的でもあるが、自分の個人的問題を解決したいという意図があるなら不適切だし職業倫理にも反する。大勢の人々の前で生身をさらすのは、それが聞く人の癒しに結びつくときだけで、何かの反応を期待しているときではない。

 

 

さらにチェックポイントとして、

 

・なぜこれを話そうとしているのか?
・どんな結果を期待しているのか?
・私はどんな感情を抱いているか?
・話そうとする意図は、私の価値観に沿っているか?
・話した結果や反応・無反応によって、私の感情が傷つくか?
・これを話すのは人とつながるためか?
・どうしてほしいかを身近な人に本音で言えるか?

 

を挙げています。

 

 

すべてのチェック項目を何度も読み返し、いまようやく、このブログの更新ボタンを押したいと思います。

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


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幸せや良いことが続くと不安になる

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 愛着スタイルに傷を持っている方と話していると、皆さんかなりの確率で共通しておっしゃるのが、

 

「幸せが続くと怖くなる」
「良いことがあると、次にものすごく悪いことが起きる予兆ではないかと身構えてしまって、幸せを味わう余裕がなくなってしまう」

 

というお話です。

 

 

 先ず、こういった思考が起きやすい背景には、幼児期に養育者、または、ごく身近な人(友人など)から、首尾一貫した共感や反応を貰えなかったことがあります。

 

 

 前回同じことをした時には親から褒められたのに、今回は怒られた。でも、理由がまったく分からない。昨日まで仲良くしてくれていた友人が、翌日学校へ行ったら、なぜか口を利いてくれなくなっていた・・などなど、不安定な状況に置かれることが多かった愛着障害の人たちは、自分の身や心を守る手段として、

 

「この安全・安心な状況は長くは続かないかも知れない」

 

という生き方を自律神経の反応そのものにインストールしていきます。この自律神経系による「自分の身や心を守る手段として」というのがなかなかの曲者で、これを意思の力でどうにかしようと思ったところで、どうにもならないわけです。

 

 

 わたしもこの、

 

 

「この安全・安心な状況は長くは続かないかも知れない」

 

 

という感覚には、未だに襲われてしまいますが、無自覚に巻き込まれていた頃に比べたら、「あ、また来た!」と自覚できるようになっただけ良いかもしれません。

 

この感覚が暴走すると、

 

「あの人は私のことが嫌いになったのかも知れない」

 

とか、

 

「今は仲良くしてくれているけど、その内に見捨てられるに決まってる」

 

 

とか、あらぬ妄想で心が疲弊していき、疑いと猜疑心がデフォルトベースで人と接してしまうので、それを感じ取った相手側も無意識レベルで緊張してしまい、本当に関係性がこじれていく・・なんてことも。(涙)わたし自身、これで何度も大切な人間関係を失ったり、壊してきてしまったのかもなあ・・と振り返っては落ち込むことが間々あります。

 

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 実は、先日ご紹介したブレネー・ブラウンの著書、

 

 

 

 の中に、こうした理由なき不安をどう捉えなおせばいいのかのヒントが書かれており、「そう、そう!そういうことだよね!これ、すごくいい!」と感じたフレーズがあったので引用します。

 

 

喜びの瞬間にしばしば忍び寄る傷つくことへの不安は、悲劇の警鐘ではなく、何かに気づかせようとする合図でもある。それが何の合図か気づいたとき、私は目からうろこが落ちる思いがした。喜びのさなかの不安の揺さぶりは、感謝へのいざないなのだ。目の前にいる人、人とのつながり、今の瞬間が、どれほどありがたいものか認めなさいと、いざなっているのである。感謝は、喜びのさなかの不吉な予感に対する解毒剤だ。喜びに心を開ける人は例外なく、感謝を実践することの大切さを口にする。

 

 

喜びのさなかの不安の揺さぶりは、感謝へのいざないなのだ。目の前にいる人、人とのつながり、今の瞬間が、どれほどありがたいものか認めなさいと、いざなっているのである。

 

 

このフレーズに出逢った時、わたしが幸せを感じている時の(喪失への)「不安」は、目の前に居る人や、出来事が、自分にとってどれだけ愛しく大切なものであるかをただ知らせているものであって、そこにただただ感謝をすればよかったのだと腹落ちしたのでした。

 

 

近頃、再びこの「不安」を頻繁に感じる瞬間が増えていました。自分にとって、愛しい人や、ペット、大切な仕事や場が、増えてきたからでした。ただまっすぐに、「ありがとう」と思えばよかった。伝えればよかった。本当にそれだけだったのだなあ・・と。

 

 

愛しいものが多い人は、傷を知らない強い人なのではなく、本当は誰よりも喪失を恐れる、不安と共に在り続けられる人なのかも知れません。また、それでよいのかも知れません。

 

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きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


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