わたしが最初に「俳句には何らかの心理療法的な役割や癒しの効果があるのではないか?」と考えるようになったきっかけは、以下のような理由からでした。
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この他にも、エリクソンが言うところの基本的信頼感*(*養育者への人格的な信頼感を通し、自分がこの世に存在することを肯定的に捉え、人生には生きる意味や生存する価値があり、世界は信頼するに足るものだという感覚)が希薄なまま育った愛着の傷を持つ人たちにとって、対人での信頼関係の構築は困難を伴うものですが、自然や四季、植物や動物たちといった、自分を取り囲む世界とのつながりを作る方法として、季語を詠む俳句はぴったりだと思いました。
また、IFSの観点からも、感情をろ過した上で詠まれる俳句は、特定のパーツに感情を乗っ取られることを防ぐ効果があるのではないかと考えられます。
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そんな中、先日、夏目漱石が正岡子規の提唱した「写生文(明治40年)」というジャンルについて次のように述べている文章を見つけたのです。
写生文家の人事に対する態度は貴人が賤者を視るの態度ではない。賢者が愚者を見るの態度でもない。君子が小人を視る態度でもない。男が女を視、女が男を視るの態度でもない。つまり大人が子供を視るの態度である。(中略)子供はよく泣くものである。子供の泣く度に泣く親は気違いである。親と子供とは立場が違ふ。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は子供が泣く度に親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。(略)写生文家は泣かずして他の泣くを叙するものである。
ここで言う「大人」とは、副人格の感情からブレンド解除できている大人の自分(セルフ)、子どもとは、インナーチャイルドであったり、その子を守っている複数の副人格(パーツ)とは言えないでしょうか?俳句とは、大人が泣いている子供の感情に巻き込まれないようにして、客観的に叙するものだと漱石は言っているのです。これ、まさしくIFSのセッションで行っていることと、本質は一緒なのです。俳句を詠み始めてから、内面が整ってきたのは、わたしの思い過ごしや、気のせいなんかではなく、しっかりとセオリーに則った結果だったのではないでしょうか?
トラウマ治療に限らず、あらゆる心理療法の土台として、基本的信頼感と愛着、また「二重の気づき」が必要となることが言われています。
『トラウマによる解離からの回復』の著者、ジェニーナ・フィッシャーは、「二重の気づき」について以下のように述べています。
「二重の気づき」とは意識の複数の状態を俯瞰できるということです。クライアントは現在と、過去と関連する顕在及び潜在意識の両方に居続けられます。子どもパーツたちの痛みを伴う感情を感じながら同時に、脊柱の長さや安定感、呼吸の流れ、心臓の鼓動、地面に足を感じることなどで、感情を許容できるようになります。
簡単に言いうと、「今悲しんでいる自分に気づいている自分にも気づいている」という状態のこと。俳句はこの状態を、その性質上容易に生み出してくれるのです。
俳人の池田澄子は著書『本当は逢いたし』の中で、
幸せにつけ不幸につけ、俳句は私をシャンとさせた。わが幸不幸を他人事のように眺める力を俳句がくれた。
と書いています。表現こそ違いますが、「二重の気づき」を端的に表している文章と言えないでしょうか?
単純に楽しい上に、自律神経の働きを調えてくれる可能性が見えてきた「俳句」と言う代物に、ますます興味が深まってしまいそうです。
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写真を眺めてほっと一息^^