愛着スタイルに傷を持っている方と話していると、皆さんかなりの確率で共通しておっしゃるのが、
「幸せが続くと怖くなる」
「良いことがあると、次にものすごく悪いことが起きる予兆ではないかと身構えてしまって、幸せを味わう余裕がなくなってしまう」
というお話です。
先ず、こういった思考が起きやすい背景には、幼児期に養育者、または、ごく身近な人(友人など)から、首尾一貫した共感や反応を貰えなかったことがあります。
前回同じことをした時には親から褒められたのに、今回は怒られた。でも、理由がまったく分からない。昨日まで仲良くしてくれていた友人が、翌日学校へ行ったら、なぜか口を利いてくれなくなっていた・・などなど、不安定な状況に置かれることが多かった愛着障害の人たちは、自分の身や心を守る手段として、
「この安全・安心な状況は長くは続かないかも知れない」
という生き方を自律神経の反応そのものにインストールしていきます。この自律神経系による「自分の身や心を守る手段として」というのがなかなかの曲者で、これを意思の力でどうにかしようと思ったところで、どうにもならないわけです。
わたしもこの、
「この安全・安心な状況は長くは続かないかも知れない」
という感覚には、未だに襲われてしまいますが、無自覚に巻き込まれていた頃に比べたら、「あ、また来た!」と自覚できるようになっただけ良いかもしれません。
この感覚が暴走すると、
「あの人は私のことが嫌いになったのかも知れない」
とか、
「今は仲良くしてくれているけど、その内に見捨てられるに決まってる」
とか、あらぬ妄想で心が疲弊していき、疑いと猜疑心がデフォルトベースで人と接してしまうので、それを感じ取った相手側も無意識レベルで緊張してしまい、本当に関係性がこじれていく・・なんてことも。(涙)わたし自身、これで何度も大切な人間関係を失ったり、壊してきてしまったのかもなあ・・と振り返っては落ち込むことが間々あります。
hanahiroinoniwa.hatenablog.com
実は、先日ご紹介したブレネー・ブラウンの著書、
の中に、こうした理由なき不安をどう捉えなおせばいいのかのヒントが書かれており、「そう、そう!そういうことだよね!これ、すごくいい!」と感じたフレーズがあったので引用します。
喜びの瞬間にしばしば忍び寄る傷つくことへの不安は、悲劇の警鐘ではなく、何かに気づかせようとする合図でもある。それが何の合図か気づいたとき、私は目からうろこが落ちる思いがした。喜びのさなかの不安の揺さぶりは、感謝へのいざないなのだ。目の前にいる人、人とのつながり、今の瞬間が、どれほどありがたいものか認めなさいと、いざなっているのである。感謝は、喜びのさなかの不吉な予感に対する解毒剤だ。喜びに心を開ける人は例外なく、感謝を実践することの大切さを口にする。
喜びのさなかの不安の揺さぶりは、感謝へのいざないなのだ。目の前にいる人、人とのつながり、今の瞬間が、どれほどありがたいものか認めなさいと、いざなっているのである。
このフレーズに出逢った時、わたしが幸せを感じている時の(喪失への)「不安」は、目の前に居る人や、出来事が、自分にとってどれだけ愛しく大切なものであるかをただ知らせているものであって、そこにただただ感謝をすればよかったのだと腹落ちしたのでした。
近頃、再びこの「不安」を頻繁に感じる瞬間が増えていました。自分にとって、愛しい人や、ペット、大切な仕事や場が、増えてきたからでした。ただまっすぐに、「ありがとう」と思えばよかった。伝えればよかった。本当にそれだけだったのだなあ・・と。
愛しいものが多い人は、傷を知らない強い人なのではなく、本当は誰よりも喪失を恐れる、不安と共に在り続けられる人なのかも知れません。また、それでよいのかも知れません。
きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき
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