先日、昨年の夏以降、それまで日常の中で、心の拠り所、(少なくとも)安らぎ(だと感じられていた)だった句作が、どうにも上手くいかなくて・・と、句友さんに打ち明けたところ、「私が通っている短歌の講座のテキストなのだけど・・・」と、小冊子を1冊送ってくれました(いつもここぞって時に助けてくれるAさん、本当にありがとう)。
その中の第3章”短歌がつくれないとき”という箇所に、真っ暗闇の中で見つけた一筋の灯のような文章を見つけたので、少しだけ引用してご紹介したいと思います。
「短歌を作る」ということは、どんなに日常的な歌を作っていると見えても、非日常の行為です。私たちは毎日日常的な暮らしの時間を積み重ねながら、歌を作るひとときには、日常と違った時空に飛躍しているのです。そのとき、私たちは生活する「私」を短歌を作る「私」に押し上げて、歌を作っています。スランプとは、この跳躍がうまくゆかなくなったときでしょう。生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしているのかもしれません。
この部分を読んだ時、何か胸につかえていたものが、すっと通ったような気がしたのです。
特に、一行目の
「短歌を作る」ということは、どんなに日常的な歌を作っていると見えても、非日常の行為です。
この部分。「短歌」のところを「俳句」に置き換えてみる。
俳句を始めて3年目。いつしか自分の中に、「俳句を詠む」という行為は「日常」であらねばならない、その在り方こそが「俳句を嗜む道」である・・みたいな気負いが生まれていたことに気づかされました。
いやいや、「非日常」の行為ですよ!とベテランの黒木さんに言われて、なんだか目が覚めたというか、私ったら自分をおよそ身の丈に合わない理想の鋳型にはめよう、はめようとしてきたのかもしれないと思いました。そもそも、俳句を詠むと言う行為が「非日常」だったから、楽しかったのに、です。
また、
私たちは生活する「私」を短歌を作る「私」に押し上げて、歌を作っています。スランプとは、この跳躍がうまくゆかなくなったときでしょう。生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしているのかもしれません。
この部分。
生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしている
には、心当たりがあります。
昨年の夏以降の家族の病気、引っ越し、手術、入院、秋からの新しく始まった仕事で、「日常のわたし」は覆い尽くされていました。
「生活する私」には自分を「俳句を詠む私」に押し上げる体力が、残っていなかったのでしょう。歳時記を読む、優れた俳人の句を味わう、散歩する、人と会う・・など、自分なりのインパクト(俳句の種)は多かったのに、それを着床させるだけの基礎体力がすっからかんだった・・というわけです。
それなりの努力をしているにも関わらず、それが実っている気がしない、それゆえのスランプと言うのは、原因を探すとドツボにハマっていきますが、まさにそれをやっていました。やり続けていたと言ってもいい。(笑)
生活上のわずらいが「私」を覆い尽くしている
残念ながら、この状態は今年も続きそうですが、この部分への耐久力が回復してきたら、また詠めるようになるのかも知れません。
それまでは焦らず、これまで同様に、俳句を「非日常」の楽しみの縁として大切にしていきたいと思いました。俳句人生、この先、まだまだ長いですからね。^^
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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写真を眺めてほっと一息^^