「言葉を尽くした分だけ共感してもらえるとは限らない」
これ、以前のわたしは真逆で、「言葉を尽くせば尽くした分だけ共感してもらえるはずだ」と思っていました。なので、SNSなどで時々散見される(あくまでこれは一例ですが)、
「今日はすっごく寒~い!あったかいコーヒーでも飲んで、みんなあったまろう♪♡」
みたいな投稿に、どうしてあっという間に”数百”もの”いいね”がつくのか、全く理解できませんでした。それらを目にしても、心の中にはいつも、「で?」、「は?」、「だから?」みたいなクエスチョンマークがびゅんびゅん飛び交っていたわけです。^^;
いや、確かに今日は寒いよね?
うん、こんな日はホットコーヒーとか、いいよね?
でもさ・・・で?・・・だから?それで、どうした?!
とまあ、こんな具合です。
翻って、自分の投稿はどうだったか?と言えば、少なくとも「今日は寒い」という事実の報告と、「ホットコーヒー」のススメよりは、濃い内容発信であるにも関わらず、反応は10にも届かないわけです。それが、個人的に、長いこと謎でした。
その謎が「ひょっとして、そう言うことだったの?!」と、うっすらと解けてきたのは、俳句をやり始めたことがきっかけでした。
ご存知の通り、俳句は17音だけで自分の伝えたいことを表現する文藝です。
「言葉を尽くせば尽くした分だけ共感してもらえるはずだ」
という、かつてのわたしの概念は通用しません。17音で何が伝わるんだろう?何が伝えられるんだろう?とはじめは思っていましたが、その疑念は句会の場ですぐに払拭されることになりました。
むしろ、言葉の贅を尽くしに尽くした長文よりも、自分が本当に言いたかった本質が伝わっている確率の方が高いのです。逆に、俳句の中で無駄に散文を用いた時ほど、自分の意図が奇妙に歪んで伝わってしまうケースのなんと多いことでしょうか。
この
「言葉を尽くせば尽くした分だけ共感してもらえるはずだ」
という認知は、幼少期に自分自身を正しく理解されなかったり、話をちゃんと聴いてもらえていなかったり、ありのままの自分への十分な共感体験を得ていない、愛着トラウマを持つ人に多いのではないでしょうか?
「わたしはあの時、こんな風に考えていた」
「あの時、こんな風にほんとは感じていた」
「わたしはあの時、こんな風に言いたかった」
「本当は、こう思っていたのに・・・」
それらをあらかた抑圧し、理解、受容されることを諦めながら育ってきた愛着トラウマを持った人たちは、誰からも遮られず、邪魔されず、中断もされない「書く」という行為や、「文字」というツールに救いや癒しや慰めを見出す傾向が多々あります。
書くことで、自分の実体、感覚や感情を、確認できているんですね。
でも、だからこそ、その文章には、「これが私の思っていることなの、分かって!」「これがいま、私が感じていることなの!」「わたしを、知って!分かって!理解して!」という無意識のメタメッセージが乗りがちになってしまうんですね。そしてそれらを文章で正確に、いや、正確過ぎるほどに伝えているだけに、かえって読み手の解釈の余白が介入できなくなり、共感のスペースが狭まってしまうのです。自分を理解されたくて、懸命に自己表現をしているのに、逆に一番欲しい共感からは遠ざかっていく・・・。これでは本末転倒です。
これが、言葉の贅を尽くしに尽くした長文ほど、なぜ人から共感を得られ難いかという謎の答えではないでしょうか?
では、どうしたらこの負のループから抜け出せるのか?というと、やはり「わたしを、知って!分かって!理解して!」に必死にならなくても、人からは意外と理解されるし、共感されるという経験を積み重ねていくことだと思います。
先ずは、自律神経系の常時緊張のモードを緩めていくこと。そしてその上で、上記の(「わたしを、知って!分かって!理解して!」に必死にならなくても、人からは意外と理解されるし、共感される)ことを、どんなことでも良いので、日常で実体験として積み重ねていくこと。わたしにとって、それは俳句でした。良いお稽古となっています。
もし俳句をやってみたいという方は、9月にかけてわたしが主宰している花拾い句会の新規メンバーを若干名募集しますので、この機会にご参加ください(人数の関係で、今年の募集はこれで最終とさせてください。)。参加費は無料です。このブログのメールフォーム、または、花拾いの庭HPのメールフォームから、お気軽にお声がけください。
☆きょうも最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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写真を眺めてほっと一息^^