わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

人と親密になること=その人を喜ばせること?!

Sonyα7Ⅲwith carlzeiss sonnar 55mm f1.8

 

 特定の誰かと”親密になりたい”と思うことは、誰しにもあることです。
ただ、あなたはこんな風に思っていたりしませんか?

 

 

人と親密になること=その人を喜ばせること

 

 

え?それのどこがいけないの?
当たり前のことじゃないの?

 

何の疑いもなくそう思った方は、もしかしたら過去の人間関係を振り返る時間を、ほんの少しだけ持ってみるのが良いかも知れません。

 

 

例えば、こんな経験はありませんでしたか?

 

「いつも自分だけが相手に与える関係に陥りがち」
「自分が与えた配慮や愛情と同じだけの質のものが相手からは返って来ず、哀しくて寂しくて関係を切ってしまった」
「自分と親密になりたいと思って近寄って来る人が、みな自分から何かを貰おう、得ようとしているような気がする」
「親密になりたい相手に、絶えず何かを与えていなければ、関係が成り立たない気がしてしまう」
「親密になりたい人が喜んでくれていない時は、この世の終わりのような気がしてしまう、または、怒りのコントロールができなくなってしまう」

 

いかがでしょうか?

 

 

これらの情動は特に愛着のトラウマを持った人にとっては、馴染み深いストーリーであると推察します。

 

 

 幼い頃、最も親密な関係にあるのは養育者ですが、適切な協働調整を与えられず、気まぐれに可愛がられたり、ネグレクト(情緒的なものも含む)された愛着トラウマを負った子どもにとって、親を「喜ばせる」ことは、ただひとつ残された、その家族で生き残るための”サバイバル戦略”でした。そのため、「手続き記憶」として刻まれたそれらは、大人になっても親密になりたいと思う人を前にすると、まるで自動的に再演をはじめてしまうのです。

 

 

 親密になりたいと思った相手がヘルシーな成人であった場合、相手にはしっかりとした「境界線」が形成されていますので、過剰な「喜ばせ」行為は、何らかのタイミングで「そんなことはしなくていいよ」と、忠告をされるか、相手から適度な距離をおかれるはずです。相手は健全で、親切で言ってくれているのですが、愛着トラウマを持った人にとっては、「見捨てられた」と感じられるはずです。結果、相手がカウンセラーだったり、「愛着トラウマ」についての専門知識がない限りは、徐々にその関係は消滅に向かうでしょう。

 

 

 親密になりたいと思った相手が、同じ愛着の傷を持った者同士の場合、少々厄介なことがおきます。言わば、同じ痛みが分かる同士として、最初は急速に関係性は進みます。「やっと自分を細胞レベルで理解してくれる人に巡り合えた!」などと、あたかも理想の養育者に巡り合えたかのような心地になります。でも、それは残念ながら、最初の内だけ。お互いに自分が枯れ果てるまで相手を「喜ばせ」ようと必死になり、どんどん疲弊していくのです。「この人なら気持ちを分かってくれる!」というベースがある分、余計に厄介です。「あなただけは、分かってくれると思っていたのに!」とお互い、相手の痛いところに爆弾を投下しながら関係は終焉していきます。ヘルシーな方との関係の収束以上に、傷をつけ合うのがこの組み合わせでしょう。

 

 親密になりたいと思った相手が、同じ愛着の傷を持った、自己愛性パーソナリテイ障害(カーンバーグ型*軽度MR)の場合、まさにぼろ雑巾のように相手から捨てられるまで、お金を含む物理的なリソースを骨の髄まで搾り取られ、利用され、最終的には、複雑性PTSDの傷を深めていきます。下手をすると、相手の要求を満たすために借金をして自己破産だとか、それまでの生活をすべて失う・・ということが、このカップリングでは本当に起き得ます。昨今のカルトや悪徳なスピリチュアル教祖とその信者との関係がその良い例です。わたしが愛着の傷を持った方に傷が癒えるまでは、なるべくスピリチュアル的なものに依存しないことをお薦めするのは、これが理由です。

 

 

人と親密になること=その人を喜ばせること

 

 

だと、わたしもかつては思っていた口でして、だいぶ高い授業料を払ってお勉強をさせていただいたこともあります。

 

 

人と親密になること

 

 

とは、時には相手にとって言い難いことも正直に話すことができ、また、同時に、相手からも言い難いことを言ってもらって、それを受け止めることができる、耐性のある自分であること。その上でも、関係性を維持して行ける時、人と人は、本当の意味で親密になれるのだと、今は思っています。

(だからこそ、自律神経の耐性の窓を広げていくことこそが、先ずはスタートとなるのです。そこをなくして、愛着の傷の癒しはありません。)

 

もちろん、自然のなりゆきで、相手が喜んでくれたらよいですが、それは、短絡的に「喜ばせよう」とするベクトルとは違います。なぜなら、ヘルシーな関係性では、相手にとって心地よくないことを告げたとしても、後にそれを相手が、「あの時はほんとにありがとう」と言ってくれることだって在り得るわけですから。

 

 

あなたは「人を喜ばせよう」として疲れてしまっていませんか?^^

 

 

☆きょうも最後までお読みくださり
ありがとうございました^^

 

 

写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき

 

 

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