わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

久しぶりのポートレート撮影

 金曜日、地元で久しぶりにポートレート撮影をさせていただきました。かれこれ・・・4ヶ月ぶりくらい?実は正直、もう以前のように人を撮れないのではないか?と思っていた矢先のフォトセッションでした。

 

 

 年末にベルがガンで亡くなり、年明けに今度は父がガン宣告を受けてからは、「未来」と言うものに対して、どこか不信感を持つようになっていました。ある日どこかでぷっつりと「今」が儚く途切れてしまうんじゃないかという不安が絶えず付きまとうようになったのです。だから、写真に「未来」への「希望」や「幸せ」を託すために撮影を依頼してくださる方に対して、もうこの自分では応えられないのではないか?撮ってはいけないのではないか?いつしかそう考えるようになっていました。

 

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 それでも今回人を撮ってみよう!と思えたのは、それまでずっしりと居座っていた悲しみが大分変容を遂げてきたタイミングであったことと、わたしの中に芽生え始めたある”新たな感覚”を確かめたいと思ったからでした。それは、被写体であるその人の中に「悲愛=慈悲」を観撮るという感覚でした。

 

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和歌さん

 

 ポートレート撮影において最も大切なことと言うのは、それこそカメラマンの数だけ在って、十人十色だろうと思います。あるカメラマンにとっては、それは「構図」だし、またある人にとっては「ポージング」だったり、表に出た時に「売れる」か「売れないか」だという方もいるでしょう。そして、わたしもここの部分に、今年に入ってから強烈なリセットがかかったのだと思うのです。だから、撮れなかったし、もう撮れないかもとも思いました。

 

 

 でも、未来への「希望」や「幸せ」を写真にいっぱいに詰め込んで渡したかったわたしが、努力や意志ではどうにもならない「悲しみ」を抱いたままでレンズを覗いた時、そこに観えはじめたのは、これまでの撮影では見えていなかったものーそれこそが「悲愛」であり「慈悲」の気配だったのです。

 

 

 人間、長く生きていれば、悲しいこと、寂しいこと、それこそ今のコロナ禍のような自分でもどうにもならない不条理さを経験することもあります。けれどそれらを無かったことにしようとはせず、「そういうこともある」と一旦受け入れ、そこからその悲しみや寂しささえもしっかりと抱き愛して、優しさに昇華して生きる人には、必ず「慈悲」の空気が漂っているのです。それを見つけたとき、ほっと安堵し、胸の奥がじんと熱くなるのです。そして、これからわたしが人の内に観て写していきたいのは、「これ」なのだとはっきり悟ったのでした。

 

 

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 「いま」はこうしている間も、たちまち「過去」になっていきます。だから、「写真」というのは、データとして書き出された時点で言ってみれば「過去」の転写です。そして、そこに写っているのは、歓びだけでなく、それまでの苦しかった体験や、寂しかった経験を受け入れて、悲しいほどに愛し許してきた自分自身なのです。そんな自分に「ありがとう」を言えたら本当に幸せ。そして、そんなあなたに、人は安心して弱さをさらけ出し、心を委ねたいと思うのではないでしょうか。

 

 

 この日、わたしは彼女の美しい「慈悲」に包まれて、とても幸せな撮影のひとときを過ごすことができました。

 



*モデル:高木和歌さん

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

 

 

写真を眺めてほっと一息^^  

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