わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

悲しみや辛い経験が人を強くするわけではなくて

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ただいま4か月

 

 ベルが家に来てから間もなくひと月になろうとしています。朝は5時台から叩き起こされてロープ遊びをしたり、お腹が空いたと暴れては騒ぐので都度勉強を中断したり、生え始めた歯がむず痒いのかカーペットを引きちぎったりと、まあ、おてんば娘全開のベルにただいま振り回されっぱなしですが、昨年末から止まったままだったわたしの中の時計の針がようやく動き出したような、そんな実感がひたひたと湧いてきています。

 

 気持ちが前に向き始めたことで分かったこと、それは「わたし、危ういくらいに病んでいたんだな」と言うことでした。そう、グリーフに関して学んでいるのにここまで無自覚だったのか?!と情けないほどなのですが、大きな悲嘆(グリーフ)の渦にどっぷり飲み込まれて溺死寸前だった自分を今さらながらに自覚できたのでした。

 

 よく悲嘆の渦中にある人は「全身が傷ついて血をだらだらと流している猛獣」にたとえられるのですが、我ながら本当にその通りだと思います。普段なら聞き流せるような悪意の無い一言に、何度思わず噛みついてしまったことか・・・。また、誠心誠意の気遣いにも関わらず、だいぶ認知が歪んでいたのでしょうね。被害妄想のバイアスで勝手に悪い方に言葉を解釈したことも振り返ってみると多々ありました。例えば「お返事はいりません」と結ばれたメールに対して、「わたしが超ネガティブだから今はもう連絡してこないでねって意味だよね?」と勘繰ったりして(もちろん、今となってはそれは相手の方の優しさだと分かっています)。そんな制御不能だった自分のことがこのところ度々思い出されるようになっていて、身近な人で傷つけてしまった人はいないだろうか?本来ならもっと感謝を伝えられたかも知れないのに、不義理をしてしまった・・と頭を垂れたいような、それでいて、本当にその節はありがとうございましたと拝みたくなるような気持ちでいっぱいです。(でも、事実ほんとうに勘弁ならないような失礼な言葉を放つ方も居て、人の本性を見る学びの機会となりました。)

 

 

 「涙の数だけ強くなれるよ」で始まる歌がありましたが、そのこと自体は確かに嘘ではないと思います。わたしも先代のベルの死、父の癌宣告や入院を通して、これでもかと言うくらい泣いたし、涙を流しました。その過程で学んだことや気づけたことも多かった。けれど、ひとつ山を越えた今、はっきり言えるのは、「涙を流すこと」や「悲しみ」や「辛い経験」、「悲嘆」そのものが、わたしを強くしたわけではないと言うことです。では何がわたしを強くしたのでしょうか?それはそれらの経験を通して心を寄せてくれた人たちとの関わりや温かな交わりの場であり、どうしようもなくなった自分を受け入れてもらい、共感してもらったと言う経験の積み重ねに他なりません。絶対に一人では立ち直れませんでした。

 

 「大丈夫。その苦労や悲しみはいつかすべてあなたの糧になるよ」

 

と言う慰めの言葉は、実際に体験を経た当事者にとっては真実だと思います。でも、それは苦労や悲しみを支えてくれたり、受け止めてくれる、安心の「場」や「人間関係」があってこそ成り立つものです。だから敢えて悲しみや苦労を「成長」のためだと言って選ばなくてもいいし、無理にそう思わなくてもいいし、ましてやそれを人に強要するなんてもっての他です。

 

 

「大丈夫。あなたがそこに居てくれたから、
わたしの悲しみが
ようやくわたしの糧になりました。
本当にありがとう。」

 

 

誰もが、誰かにとっての「あなた」で在れること。
そんな世界に向けての小さな一歩をわたしも踏み出してゆきます。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき