よく考えてみると、昨年、お正月が明けた辺りから、自分の人生に「死」と言うものが
”現実として”関わってきたときにどうすればよいのか?について関心を寄せるようになっていたように思います。
昨年1月に読んだのがこちらの著書。
こさささこさんの『ある日突然オタクの夫が亡くなったら?』でした。
この本には、「人が亡くなった時に起こること」がリアルな時間軸で書かれています。
注目すべきはSNSをはじめとする故人のデジタルデータの扱いなどについても、実際の経験から記されていることです。
他にも、国に申請しなければもらえない給付金についてや、死亡診断書を病院からもらったら必ず複数部コピーをしておくことなど、動揺している当事者が見過ごしがちな、ありとあらゆる手続き方法ついてが大変分かりやすく載っています。
わたしはこの本を夫と妹にも読んでもらいました。ふたりとも、一瞬「え?!今じゃなくても良くない?」と言う複雑な反応をしていましたが、こういうことって、そんな冗談に思えるくらいの気分の時でないと、逆に受け取る余裕がないものだと、いま、ほとほと痛感しています。
そして年が明け2021年。
ベルの死を看取ってからは、夫もわたしも「死」に対する構え(死生観)が以前とは180度変わってしまいました。以前は「人間はいつか必ず死ぬるもの」と分かってはいましたが、それはどこか遠い他人事。観念として受け入れてはいるけれど、それはあくまで”三人称”の死であって、”二人称”や、ましてや”一人称”の死ではありませんでした。
それがベルの死を通して、「自分たちは確実に死ぬ」へと変わってしまったのです。
私たちには子どもがいないので、必ずどちらかがどちらかをたったひとりきりで看取ることになります。となると残された側には、看取る家族が誰もいない可能性だってあるわけです。そして、それはわたしである可能性が今のところ、高い。
突然倒れて病院に運ばれ、そのまま自分の意思を伝えられないような状態になってしまった時、お互いに前もって何らかのコンセンサスがなければ、残される側に大きな苦悩と後悔を強いるのではないか?更に身寄りがなければ、その判断は自ずと医療関係者に委ねられることでしょう。ならばせめて、自分の意思を第三者に伝える手段を持っておくのはどうだろう?そんな流れから入会を検討したのが、日本尊厳死協会から発行されている、リヴィング・ウィルでした。
話し合いの結果、わたしは入会。夫はまだもう少し考えたいとのことでしたので、意思を尊重し、保留としました。ただ、気持ち的には無理な延命は望まない、緩和ケアを希望するとのことでした。
(皮肉なことに、入会を申し込んだ日は、父が倒れたと連絡を受ける前日のことでした。)
hanahiroinoniwa.hatenablog.com
昨年、大学の特別講座で「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について学んだ折、毎年気軽な気持ちで自分の最期の処し方について話し合って更新していくとよいと学びました。いま、父がこうなってみて、家族の誰もが健康である時に、一番触れたくない「死」についてちゃんと話し合っておくことの大切さを身に染みて感じています。
写真は先日購入した「私の生き方連絡ノート」です。
今年から、1年単位で更新してゆきたいと思います。
薄くて最低限必要な要点のみ書けるようになっていますので、
先ずはこのくらいから始めます。
きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき