わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

グリーフ(悲嘆)はどこか遠い世界のことですか?

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 グリーフケアとかスピリチュアルケアとか聞いたところで、現に今、自分は病気とは無縁で元気に生きてるし、両親も幸いまだまだ健在の様子だし、配偶者だって憎たらしいほどピンシャンしてるから(笑)、力説されたところであまりピンと来ない・・と言う方は正直多いかと思います。こんな記事を書いているわたしでさえ、昨年愛犬を介護・看取るまでは、「死」や「悲嘆」はいつかは訪れたとしても、”明日”ではないだろうという根拠なき自信がありましたから。

 

 でも昨年から引き続くコロナ禍の影響で、この”明日”を無条件に確信する土台が、ひとりひとりの無意識の中で激しく揺らいだことは否めないと思っています。具合が悪くなった時にはいつでも当たり前のように入院できると信じていた病院なのに、「医療がひっ迫しているから・病床が不足しているから」と言う理由で、これまた当たり前のように入院を断わられる・・・そんな時代に私たちはいま、生きているのです。

 

 ただ、このコロナ禍による「医療ひっ迫」状態は、いつなのかはっきりとは分かりませんが、確実に終わりを迎えます。実はそれ以上に今後じわじわと問題になるであろう「医療ひっ迫状態」を私たちはまだ直視出来ていません。それは、少子高齢化によるベッド数不足の「医療ひっ迫」です。

 

 厚生労働省の「人口動態統計」によると日本の生産年齢人口割合は、現在減少の一途をたどり、2060年には50.9%になると言われています。対する高齢化率は39.9%。この労働力不足は想像以上に深刻です。となるとどうなるかと言うと、現在8割の人が病院で臨終を迎えると言われていますが、今のままではベッド数が不足するのは言うまでもありません。さらに介護を行うスタッフも減っているわけですから、これまでのような手厚い介護は受けられないでしょう。働き手が居ないから年金も減るばかり。仮にAIが労働不足を補ったとしても、AIにはお給料は支払われませんから、所得税もいただけませんよね?健康保険の負担率もあがってしまい、よほどの蓄えがない限り、入院費も払えないかも知れません。となると、入院が叶わず、必然的に自宅での看取りが増えざるを得ないのではないかと考えられます。その時、これまで病院にまかせっきりだったおかげで、目に触れずに済んでいた「死のプロセスの全貌」が、雪崩のように個人に、その家族に、迫ってくるのです。1950年代ごろまでは当たり前に自宅で接していた「死」という現象からある意味断絶されてしまった世代の私たちには、人が弱っていく様は恐ろしく耐えがたい日々となるのではないでしょうか?その恐ろしい日々を、わたしは昨年、実際に経験しています。愛犬の看取り、生々しい「死」を前に意識が常に混乱し、悲嘆が重く、死を受け止めるまでに長く時間がかかってしまいました。

 

 

 「死を迎えるにあたり人間には心身共に何が起きるのか?」、「悲嘆を負った人にどんなケアが必要になるのか?」、反対に「自分が悲嘆を負った時にはどうすればいいのか?」「もし自身がたったひとりで自宅で臨終を迎える時、どんな心の準備をしておけばいいのか?」、これらの「死についてのレッスン」がにわかに必要性を増してくるのが、これからの10年だし、20年だと思っています。残念ながら遠い世界の話ではないのですね。

 

 

 これまでの時代は、「いま、この瞬間をどう前向きに楽しんで生きられるのか」がテーマでした。ですが、ここからゆっくりと、「なぜこの人生が自分に与えられたのか?」その命からの問いかけに各々が丁寧に多様性をもって応え、あるいは答えてゆく時代にシフトしていく人が増えるように思います。これは老若男女関係なく、その意識をもって生きる人が増えていくのではないかとわたしには感じられます。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき