わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

それでもやっぱりモヤモヤすること

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 わたしはあまり料理が得意ではありません。元来、手先が不器用なので、料理は常に危険との隣り合わせ(苦笑)。包丁でうっかり指を切りはしないか?と最中は大概冷や冷やしています。また、造形が苦手なので、美しく、見栄えよく、包んだり、まるめたり・・と言った作業をするたびに、上手くできない自分に対して落ち込みます。つまり、料理はわたしにとって、どちらかと言えば、自己肯定感を下げる方の営みなわけです。
 時々、お料理が得意な友人・知人のインスタ等に、「これって本当に同じ人間の仕業だろうか?」と思いたくなるほど素晴らしい料理写真が流れてくるのですが、それを目にするたびに、ほんのりと自分に「ダメだし」をされているかのような妄想気分になることも・・・。^^;とは言え、美味しいものは大好きだし、家族もいますので、日々の健康と暮らしの継続のために、頑張って食事を作っております。

 

 

 

 なので、今日ご紹介する本も、昨年の12月に参加したイベントで登壇された、中島岳志先生との共著でなかったら、おそらくは手にとっていなかっただろうと思います。

 

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 

 『料理と利他』の冒頭で、中島岳志先生は、イタリアの作家、パオロ・ジョルダーの著書『コロナ時代の僕ら』というエッセイから次の言葉を引用しています。

 

 

環境に対する人間の攻撃的な態度のせいで、今度のような新しい病原体と接触する可能性は高まる一方となっている。病原体にしてみれば、ほんの少し前まで本来の生息地でのんびりやっていただけなのだが。森林破壊は、元々人間なんていなかった環境に僕らを近づけた。とどまることを知らない都市化も同じだ。多くの動物がどんどん絶滅していくため、その腸に生息していた細菌は別のどこかへ引っ越しを余儀なくなれている。(pp 64-65.)

 

 

そして、

 

つまりコロナの問題というのは、私たちがどんどんどんどんと自然破壊をすることによって、本来は森の深くで生きていたウィルスと人間が接触する機会をつくり、そしてその生息地を奪ったがゆえに、ウィルスが人間を生息地に変えてきている問題である。

 

と述べています。

 

 

 それに対して、料理研究家の土井善晴先生は、著書『一汁一菜でよいという提案』の中で、

 

地球環境のような世界の大問題をいくら心配したところで、それを解決する能力は一人の人間にはありません。一人では何もできないと諦めて、目先の楽しみに気を紛らわすことで、誤魔化してしまいます。一人の人間とはそういう生き物なのでしょう。しかし大きな問題に対して、私たちができることは何かと言うと、「良き食事をする」ことです。どんな食材を使おうかと考えることは、すでに台所の外に飛び出して、社会や大自然を思っていることにつながります。台所の安心は、心の底にある揺らぎない平和です。

 

と記しています。わたしも、このどう食材を用いようかと考えること自体が、社会や自然に直結しているという考え方には賛成です。

 

 

 今でこそ、家庭料理研究の第一人者として有名な土井先生ですが、お父様である勝氏から家庭料理の流派を受け継ぐ前は、海外で修行をし、プロとして世界に名をはせる料理人を目指していた頃もあったそうです。それがどうして家庭料理の研究家となったかと言うと、芸術品としてではなく、生活での実用性、つまり”用の美”を重んじた日本の「民藝」文化の先駆けとなった河井寛次郎氏の記念館に行ったことがきっかけだったそうです。その際に感じたことを土井先生は以下のように綴られています。

 

 

 そんなときに、京都の河井寛次郎記念館に行ったら、河井寛次郎のつくり出した非常に心地よい、美しい空間があるわけですね。これってなんなのと。美しいものは追いかけても逃げていく。でも、淡々と真面目に仕事をすること、自分が生活するということで、美しいものはあとからついてくるじゃないかということを、河井寛次郎や濱田庄司は発見するわけです。まさにそのことを実施した人たちなんですね。

 

 

 土井先生の料理の本をわたしも数冊ですが拝読したことがあります。シンプルな里芋の煮っころがしなど、所謂「おふくろの味」的なレシピなどが多かったように記憶しています。ポテトサラダなども、具材を混ぜ過ぎず、味にムラがあったとしても、個々の素材の食感を楽しめばいい、均一にしなくてもいい、・・・それこそが、家庭料理の醍醐味なのだから、といったスタンスです。

 

 

 料理があまり得意ではない私などは、土井先生の仰る”手抜き”、”いい加減”のススメや、「一汁一菜でいい」などと言われたら、それこそ”免罪符”をもらったかのような気分になったものでしたが、今回、改めて『料理と利他』という著書を読み返してみて分かったのは、いくら”ムラ”があってもいい、”美しく剥き過ぎなくていい”といっても、土井先生自身は、プロとしての技術とワザで、素材への徹底した”下ごしらえ”、たとえばアク抜きなんかを都度行っているという事実でした。それを土井先生は「美味しいものは、そもそも美味しいのだから、美味しい状態にしてあげるだけでいい」と仰っているのですが、果たして、その”下ごしらえ”を一般人が、ましてや料理が得意ではない人間が、毎回出来るか?と言うと、正直疑問なのでした。わたしなら・・・できない。

 

 

 これは別件の話ですが、世の中で多少なりともファンがおり、名前が通っている作家さんが、「誰かの役に立たなくてもいいという生き方こそ大切だと思いました」とあるインタビューで述べておられたのですが、その方は実際、誰かの役に立っているから、雑誌のインタビューを受けているわけで、その記事を読んだ時と同じくらい、土井先生の”料理はいい加減でいい”という発言にはモヤモヤしてしまいました。

 

 

 あるレベルで結果を出した人たちの教訓とか金言というのは、どこをどう切ってもかっこいいのです。でも、モヤモヤしてしまった時には、それをそのまま、自分に適応しないこともすごく大切。得意じゃなくても、プンスカ怒りながらでも、今日も暮らしの糧としての料理を淡々としている・・。そんな自分にだってきっと、わたしだけの「美しい」何かが後からついてくる。そう信じたいのです。

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

 

愛着に傷つき持つ人のピアグループ
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写真を眺めてほっと一息^^  

 

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