わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

写真とは利他によって成り立つ産物なのかも知れない

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hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 前回の記事で少しだけ述べましたが、土曜日はこちらの講座に参加していました。

 

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"利他"とは、一般的に「他を利すること」や「他人の幸福を願うこと」を意味し、仏教では「菩薩などが人々に利益を与え救済すること」などを意味します。

 

 

 

 

 

 講座は、(上記の『「利他」とは何か』に寄稿されている)中島岳志先生のこの問いかけによって思索されていきました。

 

その問いかけとは、

 

 

利他とは
「他人を利するための行い」だと
一般的には言われているが、
私たちが他人に
「~~だから~~してあげる」
と言う時、それは本当に
「利他」だと言えるだろうか?

 

 

というものです。

 

 

 

中島先生は、ボランテイアを例に出し、

 

 

たとえば、ボランテイアを行う時、
その動機が、受験や就職を有利にする
”加点”を目的としていた場合、
その行為は”利他”と言えるだろうか?

また、頼まれてもいないのに、
これをしたら〇〇さんがきっと
喜んでくれるに違いないと思って
差し出す行為は、”利他”と言えるだろうか?
○○さんにとって、
それは迷惑行為となる場合も
あるのではないか?

 

 

と、問いかけます。

 

そして、では”利他”とは何だろう?
と考えた時、こんな面白い表現で
示してくださいました。

 

それが、

 

”あの時のひとこと問題”

 

というフレーズです。

 

 

中島先生は、利他が発生・成立する絶対条件として、いくつか挙げており、そのひとつが、

 

①利他とは与え手側によってではなく、受け取り手が主体となって発生するものである。

 

ということ。また、

 

②利他はその場での受け渡し、リアルタイムで起きるとは限らず、時間差で過去からもたらされる場合が多い

 

 

とも仰っていました。

 

 

これは具体的にどういうことかと言うと、たとえば、あなたが今、学校の教師や会社の上司、職場の先輩、習い事の師匠等から、深い内省の促しを強いるような耳の痛い示唆を与えられたとしましょう。その瞬間は頭に血が上っていますから、到底その言葉を素直に受け入れるだけの心器はあなたにはありません。ですが、数年、あるいは数10年後のある日ある時、それは突然にやってきたりします。

 

今の自分があるのは、”あの時のあのひとこと”があったおかげだ!

 

そう心から思える瞬間です。

 

 

更に中島先生は、こうも付け加えています。

 

 

あなたにその利他をもたらした人は既に亡くなっていたり、もう会えなくなっている場合もある。つまり、利他の種は過去に既に存在しており、受け取ることによって初めて”今”に存在できるようになる。

 

このことこそが、

 

①利他とは与え手側によってではなく、受け取り手が主体となって発生するものである。

 

が意味するところです。

 

 

利他を与えた(とされている)人物は、与えた瞬間は、それが相手の為、利他となるであろうことなどは、よもや想像もしていません。むしろ恨みを買うかも知れない、自分が嫌われるかもしれない、相手を傷つけるかも知れないといったデメリット(損や傷)を超えてなされた行為なのです。つまり、そこには、他人を利してあげたい・・といった、何らかの”計らい”は存在していないことになります。

 

 

 

 

 

 

著書の中で先生は、「わらしべ長者」を引き合いに出されて”利他”を紐解いてくださっていますが、これがなかなか面白いです。

 

 

「わらしべ長者」のお話を簡単に説明すると、運にもお金にも縁のないひとりの青年が、ある日、長谷寺の観音様に「助けて欲しい!でないとここで餓死します。自分に何か与えて欲しい!」と懇願します。青年が居座って21日間が過ぎた時、彼を憐れんだ観音様が、夢の中でこう告げるのです。”お寺の門を出て最初に手に触れたものを捨ててはいけない。それを大切にしなさい。”と。お寺を出たところで転んだ青年は、起き上がった時、あるものを手にしていました。これが皆さまもご存知の、一本の藁(わらしべ)です。その藁に、青年は煩いアブをくくりつけて、振り回しながら歩いていきます。そこへたまたま通りかかった貴族の子どもが青年の藁とアブを欲しいとねだります。なんとここで青年は、21日間も粘って観音様から頂いた、大切にしなさいと言われていたそれを、呆気なく子どもにあげてしまうのです。青年は藁とアブの代わりにミカンを3つもらいます。その後、青年は喉が渇いて今にも死にそうな旅人に出逢います。藁とアブがミカンに変わったことに味をしめていた青年は、その人にミカンを譲ります。すると、ミカンの代わりに立派な反物を貰うのです。

 

・・・とまあ、これを繰り返して、青年は最終的には大きなお屋敷の娘と結婚し、幸せにくらしましたとさ・・となるのですが、中島先生は、著書の中で、”藁とアブの手放し”に注目し、こう述べておられます。

 

 

青年は、夢のお告げにしたがって手にした藁を、それを欲しがる子どもにあっさりとあげてしまう。この段階では、青年は長谷観音が物をどんどん大きな富へと変換してくれることに気づいていません。しかも、藁をあげたらミカンがもらえるとも思っていない。ものすごく不用意に、大切な物をぱっとあげてしまっている。つまり、この一箇所だけが、大切な物の一方的な贈与になっているのです。

 

 

この部分を読んだ時、わたしは”情けは人の為ならず”というフレーズを思い出しました。その言葉が意味するのは、”他人に与えた情けは、巡り巡って、自分のところへ佳きものとなって戻ってくる。だから人に親切にしなさい。他人を利することをしなさい。”というものですが、”自分のところへ戻ってくる”と思って何かしらの行為をする時点で、これはもはや”利他”とは大きくかけ離れたものなのかも知れないと思ったのです。

 

 

 

 何も意図しないところで、”ふっと”、”思わず”、起きてしまうこと。また、それが、時間を超えて、受け取り手にとって”佳き”ものとなって受け入れられ、”今”に存在し得ること。

 

 

”利他”とは、わたしたちの考えが及ばぬ領域で時空間を超え、編まれ、紡がれている、そんな営みなのかも知れません。

 

 

わたしは個人的に、

 

 

①利他とは与え手側によってではなく、受け取り手が主体となって発生するものである。

 

 

と聞いた瞬間に、「写真も利他によって成り立つ産物ではないだろうか?」と感じました。なぜなら、私たちを利してやろう!などとは決して思っていない存在物たちが、撮影者によって、「これは美しい!」「これは面白い!」「そこ場所にその瞬間、ただ存在してくれていてありがとう!」と見出された瞬間に、意味のある大切な1枚の絵となるからです。

 

 

 

 

山本芳久先生の『世界は善に満ちている』の内容にも通ずるものがありますが、この世界は、過去の歴史や人物(すでに亡き人)、脈々と続く自然からもたらされている、”あの時のあの○○(利他)”で溢れており、私たち(主体)に受け取られるのを、何も図らうことなく、ただ待っているのではないでしょうか?

 

 

わたしは日々、それらの”利他”を写真を通して受け取っている・・・。そう思うと、この世の中そのものが、なんと豊穣なことだろうかと(たとえそこに、悲しみや争いが絶えぬのだとしても)感極まってくるのです。そして、利他の受け手としての自分の器を磨き続けていくことの大切さも、忘れずにいたいと思います。

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

 

写真を眺めてほっと一息^^  

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Photo Philosophia