わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

コロナ禍とは「薬抜き」期間だったのかも知れない

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二度咲きの金木犀

 一昨日あたりから、「一度散った金木犀がまた咲いてるんだけど・・」という会話をあちらこちらで耳にするようになりました。これが毎年のことならこれほど話題になることもないと思うので、どちらかといえば稀有なことなのでしょう。そんなわけで、わたしもファインダ越しに二度目の再会を楽しみました。

 

 

 さて、緊急事態宣言も明けて、どことなしか街に活気と明るさが戻ってきたのを感じています。ずっと閉まっていた近所のいきつけの小料理屋さんにも、夕暮れ時、明かりが灯るようになり、「大将、ああ、良かったね~。また近い内に寄せて頂くね~!」と心の中で呟きました。

 

 そんな中、コロナ禍以降、完全リモートワークになっていた我が家の夫にも異変が(笑)!昨日、夕飯を食べていると、

 

「やっぱり、週に1回は会社に行かないとまずいよな~・・・」

 

ふと、そんなことを言い出したのです!!!(歓喜)

 
いいぞ!いいぞ!夫よ!その調子!!!!

 

 

 まあ、よくよく聴けば、ここへ来てじわじわと部下たちのメンタル面に「対面」しないことによる芳しくない影響が出始めているらしく、そのことを危惧したためにこぼれた発言だったようです。ですが、こちらとしては、何と言いますか、早く来すぎちゃった「シルバーライフ」的なこの生活から週に1日でも解放されたい!^^;3度の食事を手抜きせずに、きちきちと毎度用意する生活から解放されたい!^^;家で行っていた仕事をまた再開したい!半オフィスと化した家の中を、いつ何時でも緊張せずに自由に行き来したい!!コロナ禍前は当たり前だった、私の「おうち時間」よもう一度ー!(涙)なわけです。

 

 

 ただ、この生活がもたらしてくれたものが、すべて「不具合」ばかりだったかと言えば、完全にそうだとは言い切れないと思っています。

 

 

 コロナ禍以前の数年間をひとまとめにして振り返ってみたとき、もしあのまま、あのペースで、仕事をし、人に会い続け、移動をし、出張をし、お金を廻す・・・、それを日々繰り返していたら、わたしは確実につぶれていたか、人格障害等で、相当こじらせていたんではないか?と、そう、思うのです。

 

 

 こう見えて(どう見えて?)コロナ禍以前の数年間は、週の内半分以上が、撮影やら、打ち合わせやら、コンサルやら、コミユニティイベントやら、出張レッスンやらを展開していたわたしでした。そういう働き方が「イケてる」的な時代背景もあったのでしょうけれど、とにかく絶えず人と会ってはいました。そして、「次は、どんな新しいことを?」、「どんな新しい出会いを?」、「どんなまだ誰もやっていないことを?」そんな視点ばかりで動いていたように思います。人間関係は拡大、拡大、情報は収集、収集、発信、発信、その繰り返しだったんですね。”しんどい”思いは確かにあった。でも、そのサイクルをどう止めたら良いのか、自分でももう分からなくなっていました。

 

 

 それがコロナが始まって、一気に強制終了となったわけです。遠出するのは月に多くて2,3回。人に会うのも、ごく限られた人だけ。家には夫が24時間ずっと居る。初期の頃、恐らくはその反動なのか、常に苛立ち、怒りっぽくなっていました。そこに、愛犬の闘病が始まり、悲嘆も加わりました。ですが、1年と10か月たった今、ふと以前の自分では感じられなかったであろう、外側の何かにではなく、自分の内側に生じる穏やかさの中に安堵している瞬間を多々感じられるようになりました。

 

 

 

 一体自分に何が起きたんだろう?と思っていましたが、先週の土日、『ポリヴェーガル理論を読む』の著者である津田真人先生の「拡大ポリヴェーガル理論」の講座に参加し、「あ、これだったのかもしれない・・・」と思う要因のひとつに気づいたのです。

 

 

 

 津田先生は、常々、

 

身体が変われば心も変わる
心が変われば身体も変わる

 

 

この二元論では、わたしたちが求めている本当の癒しや変容は起きないことを述べて居られるのですが、では、何がその2つを繋ぎ、変容の媒体になっているかというと、「自律神経系」を調えることで得られる、本当の「安心・安全」であるといいます。

わたしの言語力で精確に伝えるのには限界があるため、ご興味のある方は、先生の著書や講座をぜひ受講してみてくださいね。

 

 

 

 思うに、コロナ禍以前のような、「次は、どんな新しいことを?」、「どんな新しい出会いを?」、「どんなまだ誰もやっていないことを?」ということを一番に求めて働いていた時の自分と言うのは、新奇性に対して放出されるという「ノルアドレナリン」や、「わくわく」「どきどき」といった「期待感」に対して放出される「ドーパミン」優位、つまり交感神経系有意で動いてきたということだと思います。何でもやれちゃう!どこまでもできちゃう!いつまでだって動けちゃう!この感覚ですね。断っておきますが、これが「悪い」というわけではありません。未知への探索は、創造性にとっても大事な感覚です。

 


ただ、「ドーパミン」に関しては、新奇性に慣れてくると、放出されなくなるという特徴があるため、再び同じ感覚を味わおうと思ったら、絶えず「新しいこと」、「新しい出会い」、「新しい場所」をせわしなく求め続けることになります。軽い中毒状態になるんですね。振り返ってみると確かにそうで、当時は新しい出会いをとにかく求めたし、そうしていないと自分が枯渇してしまうような理由のない危機感さえ持っていました。

 

 

 ところが、コロナ生活に突入し、毎日が同じことの繰り返しになっていきました。最初の方こそ、「ドラッグ切れ」のような禁断症状?というイラつきに見舞われましたが、「薬抜け」してみて(笑)、逆に活発に放出されるようになったのが、「セロトニン」だったのだと思います。

 

 セロトニンというのは「ホットな覚醒」ではないにせよ、あきることなく繰り返される「リズム性」に対して「あ~幸せだな~」と穏やかに反応していくことを促す神経物質です。変わらない人間関係、変わらない場所、変わらない動作、そう言ったものに対して「幸せ」を感じられるようになるのを助けてくれるのですね。このセロトニンは、社会性を促すと言われているオキシトシンの放出とも深く関わっていますので、セロトニンやオキシトシンが整っている状態で人と関わっていくと、一緒に過ごす人も神経系が協働調整されますので、特別に何かしなくても、「なんか心地いいんだよね」という状態が生まれます。セラピストやカウンセラーは、この状態に自分自身を自己調整できることが必須だとも津田先生は仰っていますが、その通りだと今は実感を伴って確信できます。そう考えてみると、「ドーパミン系」のカウンセラーと「セロトニン系」カウンセラーがはっきり識別できたりして、ちょっと怖くもある^^;。

 

 

 というわけで、長々書いてきてしまいましたが、わたしにとってのコロナ禍は、しんどい面も多々あったわけですが、まさにドーパミンからの「薬抜け」期間、そして、セロトニン、オキシトシンによる、「穏やかで継続的な人間関係」適応個体への再調整期間だったなと思うわけです。

 

 

 よく、「そんな(一見)刺激のない生活になれちゃうと、ダメになっちゃうよ」的なことを仰る方もいますが、そんなことはないと思います。例えば、わたしは写真や俳句をやりますが、この両者は、繰り返される日々や景色の中に、「新奇な発見」がなければ成立しません。「ありふれた」中に「驚き」や「発見」を見出せること・・・この幸せは、中毒性もないどころか、なんといっても無尽なのですから。^^

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 


 

写真を眺めてほっと一息^^  

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