俳句を嗜むのであれば、
先ず「季語」「季題」に親しむことから・・・
と言うことで、当初は角川から出ている
持ち運びに便利な
文庫本を折に触れて眺めていたのですが、
ついにそれでは
物足りなくなってきてしまい、
(いや、多分そうなるとは思っていたけれど^^;)
図書館で借りてきて試し読みをした上で、
「これは、持っとくべき本!」と判断。
思い切って講談社から出ている
『新日本大歳時記』を5冊とも
まるっと大人買いしてしまいました!(*^^)v
もう、大大大満足です。
俳句で扱う「季語」の区分は、
春、夏、秋、冬、新年、に
分かれており、
それぞれの季節につき
1冊の歳時記があるので
計5冊と言うことになります。
こちらの大歳時記。
現在市場に滅多に出回っていない上に、
まともに買おうと思ったら
1冊7,500円もする代物。
(Amazonでは大型本は更に高値。
文庫本↓は比較的お買い得です^^)
ところがありがたいことに、
メルカリで5冊まとめて17,000円と言う
破格で出品されている方がおり、
「その金額で本当に宜しいのですか?!(驚)」
と拝むような勢いで
決済ボタンを押してしまいました。
実際に届いたそれらは、
装丁が恐ろしく優雅で、
ほとんど未使用なのではないかと思われるほどの
奇跡の”美本”でした。
いや~、ありがたや・・ありがたや・・。
もともとは、
俳句を詠むために触れ始めた歳時記でしたが、
わたしにとってそれ以上の恩恵は、
歳時記を読めば読むほど
”感覚の孤独”が癒されていったことでした。
子どもの頃から、
一晩寝て起きただけで
空の色が昨日とは違って見えたり、
月が優しそうに見えたり、
冷たそうに見えたり、
同じ場所なのに昨日通った時とは
まるで違う空気の匂いがすることが
面白いやら、不思議やらで、
仕方がありませんでした。
初夏、良く晴れた日曜日の朝。
庭にあった柿木の葉が
風で揺れるたび、
光の粒をまき散らしているようで、
それを部屋の中から見ているだけで幸せで
わーと声をあげて外に駆け出したくて・・・
その衝動がいよいよ抑えきれず、
父に「今日はどこか遠くに出かけたい!」
とお願いした時に、
「きょうは疲れてるから家に居る。」
と言われた時のがっかりした気持ちったら!
え?どうして?
この光の粒の輝きを見て、
どこかに行きたいと思わないなんて・・・!
わたしのこの駆け出したいほどの
幸せな想いを、
一体誰が分かってくれるの?
「そうだね、今日は本当にそんな日だよね!」
と誰が共に手を取ってくれるの?
振り返ってみたら、
そう言った「感覚の孤独」に襲われる機会に
わたしは子どもの頃から
無数に見舞われていて、
それをずっと持て余していたように思います。
それが、歳時記を読み始めて
一番驚いたのは、
わたしが感じていた細々した感覚的事柄が
あらかた言語化されていたことでした。
しかも、かなり”精確”に。
例えば、あの木の葉の光を見て
”駆け出した”くなる気持ち。
ーあれは季語では、
「夏きざす」とか「夏めく」と言って、
歳時記の説明を読むと、
初夏となり夏らしくなることで、
心理的にも軽快さや
解放感が生まれることとあります。
わたしが感じていた衝動は夏への衝動で、
それはもうずっと昔から
誰かが感じていたし、
句に詠み語り継がれていた・・
そのことが分かっただけで、
「そっか、わたしだけじゃなかったんだ」と
あの日父に分かってもらえずに
がっかりした気持ちが癒える思いがしました。
月の観え方が優しかったり、
怖かったりして違ったことも、
例えば「月冴ゆ」と言う言葉があり、
これは温度が低い、澄んだ月を指すそうです。
そうか、わたしは「月冴ゆ」の月を
”冷たい月”と感じていたんだなと分かり、
嬉しくなったのでした。
他にも挙げたら切りがないのですが、
誰とも分かちあってこられなかった
わたしの感覚は、
季語としてこんなにも脈々と、生き生きと、
この国で語り継がれてきたものだったことを知り、
益々俳句に触れてゆくのが楽しみになりました。
いつか、自分が撮った写真と俳句で
わたしだけの「歳時記」が作れたらいいな。
そんなことを、いま、目論んでいます。^^
きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき