句会もそうですが、コミュニテイ等の勉強会の場であっても、わたしは所謂「モデレーター」に当たる人を置いていません。
「モデレーター」って耳慣れない言葉ですよね。
簡単に言うと、主催者とは別に、参加者とのコミュニケーションを円滑にするための「仲介役」を務める方・・って感じでしょうか。
もっと具体的に言えば、そのコミュニテイなりグループの主宰者の右腕?2番手?のように見える方のことです。
確かに、モデレーターを指名しておくと、主宰者としては助かる場面も多々あります。例えば急な主宰者の欠席や、変更事項の通達だとか、モデレーターが仕切りの得意な方であればなおさら有難い。
でも、それを敢えて置かないのには理由があって、特に私が運営している場と言うのは、「愛着不全」の方にも安心して参加していただくことを前提に設定している場であることもあって、「2番手」の存在と言うのは、「愛着不全」の回復にあまり良い影響を与えないというのが、経験上(あくまで私の感覚ですが)分かっているためです。
「私よりも●●の方が大事にされている」
「どんなに頑張ってもわたしは●●みたいに愛されない」
「●●みたいにならないと、認めてもらえない」
「●●さえいなければ、私はもっと愛されたのに」
こういったマインドの「シーソーゲーム」に愛着不全の方と言うのは散々置かれ、傷つき、痛み、おびえて生きて来ました。それが、どんなに安心な場であっても、どんなに安全な場であっても、些細な出来事が心を揺さぶって来る。
自律神経の反応がそのように出来上がってしまっているから、頭では違うと分かっていることでも、自己認知と思考は「闘争・逃走」からの「フリーズ・絶望」の自動反応になってしまう。
「モデレーター」の存在と言うのは、上に挙げた
「私よりも●●の方が大事にされている」
「どんなに頑張ってもわたしは●●みたいに愛されない」
「●●みたいにならないと、認めてもらえない」
「●●さえいなければ、私はもっと愛されたのに」
といった心の反応を、どうしても誘発しやすくしてしまうんですね。
もちろん無意識のことではあるのですが・・・。
心のことを扱うコミュニテイやオンラインサロンでもめ事が起きる発端を、よくよく観察していると、大概がこれです。ましてや、主宰者が自己愛性パーソナリテイ障碍だったりした場合は、メンバーが自分への愛情を競っているのを愉快に思っている場合だってある。癒されたいと思った場が、さらに傷を深くえぐる場になっていること・・ものすごく多い。
実は私自身もこれに散々巻き込まれたし、人を巻き込んだ。^^;
ある時、主宰者への不信感が募ってしまい、その人との関係性を終えたいと思ってグループを抜けたところ、その場に居た人全員から距離をとられたことがあって、わたしとしては、ひとりひとりと誠意をもって関わってきたと思っていたのに、誰一人としてその後の私と関わってくれた人はいなくてびっくりしたことがあって・・(まあ、先方ではそのように伝わっていなくて、私が勝手に場を去ったとか、むしろ輪を乱したとかになっているのでしょうが・・)。
それ以来、自分が主宰側になった時には、主宰者の影響力は最小限にとどめて、ひとりひとりが、自分の意思で、メンバーひとりひとりと風通し良く関われる場にしたいと決めていました。何らかの理由で、私のことが嫌になって場を離れたとしても、他のメンバーとは(そう望むのなら)今まで通りに変わらぬ交流ができるように。残ったメンバーも、(私への忖度などなしに)去った人との関係を(そう望むなら)続けられるように。
結果、やはりそれで良かったという確かな実感を持っています。
もちろん、モデレーターが居るからこそ、上手く機能する場だってあります。私も規模によっては置くこともあるかも知れませんが、今後も、自分の技量と器で十分足りるマネージを、心掛けたいと思っています。
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
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写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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