明けましておめでとうございます^^
今年もどうぞ宜しくお願いします。
今日は昨年末に、あることをきっかけにずっと思いめぐらしていたことについて書いてみようと思います。
それは、
人から大切にされるってどういうこと?
というテーマについてです。
例えば、こんなことってないでしょうか?
2人の人(Aさん、Bさん)にとって、共通の上司である(Cさん)が居たとします。
Aさんは、「Cさんは自分をとても大切にしてくれている」
と感じています。
一方、Bさんは「Cさんは自分を全然大切にしてくれない」
と感じてる・・みたいなこと。
この”評価真っ二つ”案件が何故起きるかと言うと、いくつか理由が考えられますが、ひとつには、Cさん側の問題があります。実際にCさんが何らかの理由でBさんよりAさんの方をより好もしく思っている場合です。それがあからさまに態度に出てしまっているのだとしたら、それはAさん、Bさんのみならず、周囲の人にも認知されているはずです。
ところが全てが相手側の問題とは限らないのが、この「大切にされてる、されていない」問題にはあるように、私には思えるのです。
それが、「人から大切にされている」と感じる基準が、人それぞれ違うという点。
例えばAさんが「大切にされている」と感じている基準は、Cさんから仕事を正当に評価されている点かも知れません。一方Bさんが「大切にされていない」と感じる基準は、仕事は評価されていても、CさんがBさんの話にじっくり耳を傾けてくれないからかも知れません。このように、評価の土俵(基準)が違っていると、第三者から見たCさんへの印象が、時と場合で大きく変わります。
Aさんは上司であるCさんに「話をじっくり聴いてもらいたい」という要求を持っていないので、Cさんとの会話中に多少雑に扱われたとしても気にしません。Cさんに「話を聴いてもらいたい」という欲求がそもそもないからです。その欲求は他で満たせているからかも知れません。
でも、Bさんにとっては、「話を聴いてもらえない」という状況は、自分の古傷が疼く体験なのです。仮にCさんがBさんの親だったとしたら、その要求は正当なものかも知れません。ですがCさんは職場の上司です。仕事に関する必要最低限の相談に乗る義務はありますが、話を聴いてBさんのパーソナリテイ云々を理解しなければならないといった責任はないのです。
愛着の傷を持っている方は、人間関係の境界線が曖昧であることが特徴です。本来、親子間で解消していなければならない心の要求と葛藤が、一生を通じてすべての人間関係に持ち込まれてしまうからです。
自分が本当に大切にされたいと思っていたのは誰だろう?
自分が本当に理解されたいと願っていたのは誰だろう?
ここが本当の意味で腹落ちしてくると、人間関係にヘルシーな境界線が引けるようになっていきます。そして、好きでも嫌いでもない”グレーな関り”の方が、この世の中には多いし、そっちの方がむしろ当たり前なのだと諦観できると、日常的な緊張が取れて、生きることがだいぶ楽になっていきます。
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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写真を眺めてほっと一息^^