わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

乖離(かいり)する瞬間が分かるようになってきた

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 自律神経系に対するトレーニングを始めてから今年で3年目。最近になってようやく自覚できるようになったことがあります。それは、

 

「これまでの人生のほとんどの時間、わたしは”この身体”と共に居なかったのだ」

 

ということ。

 

 

 2年前、初めてSE™のセッションを受けた際、公認心理士さんから言われたことで、疑問に思っていたことがありました。

 

 

「今は分からないかも知れませんが、トレーニングを重ねるうちに、自分が”あ、今乖離した”と言うのが分かるようになります。」

 

 

 当時既に複雑性トラウマや愛着障害について聞きかじった程度の知識はありましたので、”乖離”についても、その概念を当然知ってはいました。ただ、自分では”乖離”している自覚はないですし、わたしにとって”乖離”は無縁と言いますか、向き合う必要のない症状だと思っていたのでした。

 

 ところがです。無縁どころか大いに関係していたし、むしろそこをしっかり見ないことには先にはいけないくらいのテーマだったとは・・・。わたしの場合、”乖離”が常だったために、その部分に問題があることに気づけなかったのです。つまり、全身赤い衣服を着たまま、同じく赤い部屋に入り、赤の存在を自覚できない人間と同じ状態だったということです。

 

 

 ”乖離”というと、どこか病的な響きですが、愛着に傷つきを持たないヘルシーな心理発達を遂げた方にとっても”乖離”は起きています。例えば、面白い本を周囲の音が聞こえないほど集中して読みふけっている時などがそうです。1日の終わりにお風呂に浸かって、何も考えずぼーっとしてる時も、”乖離”状態だと言えます。ただ、ヘルシーな方たちというのは、本を閉じたり、お風呂から出てしまえば、自分が居る世界にしっかりと錨を下ろし、目の前の身体で根を張って再び生きていくことができます。でも、愛着に傷つきを持った人たちは、この切り替えがないまま、ほぼ無意識的に身体を捨ててしまうのです。

 

 

 わたしの場合ですが、たとえばこんな感じです。

 

 通りを普通に歩いていると、目の前から何となく苦手な風貌の男性がこちらに向かって歩いてきます。「あ・・嫌だな」と思った瞬間に、頭がぼーっとした感じになって、視界が狭くなり、見えているのに、見えていないような、周囲の景色が濁った感じに。その間、身体の感覚はほぼなく、身体だけをその場に残し、心は別の場所へと逃げてしまうような感覚に(この状態が乖離です)。男性からにらまれたり、絡まれたりする場面のイメージを絶えず脳が送ってきて、男性とすれ違った後、しばらくして、ようやく通常の視界の広さと視線の導線が戻ってくる。

 

とか、

 

 大勢のグループで話している時、「あ、この話題にはついていけない。」とか、「わたしはこの場に居ても居なくても同じだ」とか、「わたしはこの場に歓迎されていない」と感じた瞬間に、頭がぼーっとしてきて・・・と先ほどの状態の繰り返し。 

 

 

また、こんなケースもあります。

 

 電車に乗っていると、隣の席に酔っ払いが乗ってきて座った。何やらぶつくさ文句を言っています。不愉快なので座席を移動したいと思うのですが、なぜか身体が動かない。そんな時に、やはり頭がぼーっとしてきて、視界が狭まり、身体はそのままに心だけが浮遊し、身動きがとれなくなっている自分を憐れむような物語を脳がいくつもいくつも語って見せ、聞かせてくる。

 

 

 今はこのようなことに自覚的に対処できるのですが、以前はこういったことが普通で、日常茶飯事過ぎて、自分が”乖離”していることにさえ気づくことができませんでした。

 

 

 愛着に傷つきを持つ人たちにとって”乖離”は、自分でもどうすることもできないほど圧倒される出来事に対し、唯一対処できる最善策だったと言われていますが、恐らくわたしにとってもそうだったのでしょう。習慣化され、日常化された”乖離”は、それが自覚されるまでは、その人にとっての護身術であり、「当たり前」の状態なのです。

 

 

 わたしはずっとこの身体だけに、自分の自律神経に襲いかかる圧倒的な「不快感」を背負わせていたことになります。この「不快」を感じたくないので、身体を使って行う運動や動作、所作を疎ましく感じ、無意識に自分の身体を恨み、避けるようになっていたのでしょう。なぜ身体を通した「感覚」が鈍かったのか、その理由も今となっては頷けます。

 

 また、わたしは車の運転が何故か死ぬほど嫌いなのですが、過去アメリカで生活するにあたり、仕方なく乗っていた時期がありました。毎回(これを人に話しても笑われるだけだったのですが)嘘ではなく命がけで運転していました。でも、その理由が今では分かります。身体が恐怖を感じているにも関わらず、運転中に”乖離”をしたら命はありません。つまり、車から降りるまでは心は恐怖から逃げることができず(乖離できず)、身体に留まり続けなくてはならないからこそ”命がけ”だったのです。

 

 

 身体との関係が修復されつつある今、”乖離”する瞬間によく気づくようになりました。そんな時には、意識的に足の裏が接触している地面の感覚を感じるようにしています。そして、おへそのあたりにぐーっと力を移動し、大地を踏みしめている足の重さを感じます。それだけで、自分が身体を見捨てていないことを身体に伝えることができ、自分が居る世界とのリアルなつながりを取り戻すことができています。すると面白いもので、自分にとって「怖い」ことが減って来たような気がしています。

 

 

 自分が長い間、どれだけこの世界を恐れて生きてきたのか・・・・。身体を置き去りにしてきたのか。”乖離”が起きるたびに、もう絶対に見捨てないからねと、いま、繰り返し身体にメッセージを送っています。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

 

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