わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

多様性への道のり

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 産業心理学は、様々な心理学の理論を実際の職場環境で実践・検証していく学問なので他の臨床領域の学びに比べると生活に近い気がします。今日は、集団での意思決定について書いてみたいと思います。昨今、オリンピックやワクチン接種をめぐって、様々な意見が交わされていますが、まさに「集団意思決定」の問題に私たちは直面していると言えます。

 

 

 よく組織などで何か新しい事業や創造的な企画を立ちあげる時など、「ブレインストーミング」と呼ばれる方法がとられています。会社やコミュニテイの場で、経験のある方も多いのではないでしょうか?ブレインストーミングでは、量を重視し、意見の批判を控え、時には妄想レベルの意見も歓迎します。そして出された提案を組み合わせて改善するというプロセスが踏まれます。こうしてみると、なんだか理想的な組織の話し合いの場に思えますよね。

 

 

 ところが、この「ブレインストーミング」では創造性が向上しないという可能性を提唱する人物がでてきました。ディエルとストロープは、集団の議論中は一人ずつしか話せないため、他人の発言を待っている間に、自分の発言と思考が妨げられる可能性を示唆し、これを「生産性のブロッキング」と名付けました。

 

 また、スタサーとタイタスは、集団での意思決定では、メンバーで共有されていない情報よりも共有されている情報を使用するバイアスがあることを明らかにしました。つまり、人は、組織のあらかたの人数が「たぶん、こう考えてるんだろうな~」という意見に流れやすい傾向がある・・と言うことなんですね。

 

 そう考えると、組織の話し合いの場においては、自分の意見が自由に言えているようで言えていない。新しい意見が生まれたようで、実は生まれていない(前から存在していたもの)・・ということになるわけです。

 

 

 また、「集団極性化」という現象も見逃せません。これは、集団においての議論の場では、賛成意見と反対意見を戦わせた後に、必ずしも中立的な結論に落ち着くわけではなく、むしろ反対に、個々の意見だった時よりも、過激すぎたり、慎重すぎたりと、極端な方向へ偏ってしまうという現象です。

よく分からないけど、盛り上がってその場の「ノリ」で決めてしまい、でも、いざ、実行に移す段階で「これって倫理的にどうなの?」とか「実現可能なの?」みたいな企画が生まれてしまう原因の背景には、この「集団極性化」が働いた可能性が高いと考えられます。

 

 

 

 

 

 マイヤーとビショップは、偏見の強い人たちが集まって議論することでさらに偏見を持つようになり、偏見の少ない人たちが集まって議論することでさらに寛容になる可能性がある傾向を示唆しました。

 

 

 ここで思い出してほしいのが、先日のこちらの記事です。

 

↓  ↓  ↓

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

釈さんは「信じている状態」を、他者との共振現象であると述べ、

 

 

とにかく、「信じる」はあぶないんです。「信じる」というのは、左右どちらに落ちても大きく道が逸れてしまう剣が峰を歩くようなところがあります。

 

 

 

と警鐘を鳴らします。「左右どちらかに落ちても大きく道が逸れてしまう剣」とは、すなわち、「集団極性化」の状態と同じとは言えないでしょうか?

 

 

 ここ数年、インターネットの普及と共に、リアルな人間関係の強制感や、縛りが薄らぎ、「自分が自分らしくあれる場」を求めることを推奨する傾向が強くなりました。あちこちで「オンラインサロン」なるものがにぎわっているのもその結果でしょう。それ自体にはなんら問題はなく、むしろ苦痛な人間関係を無理してまで続けなくても良い時代になったわけで、好ましいことだと思います。

 

 

 けれど、マイヤーとビショップが示唆するように、同じ観念を持つ者同士が集うことで、よりその観念が強まるとするのなら、最初は「心地よい」と感じて足を踏み入れたその場所に、それ以外の場所、つまりあなたが「心地良くない」と感じていた場所以上の強力な同調圧力がはびこる可能性だってなきにしもあらずなのです。

 

 

 とある界隈でよく耳にする言葉に「これからは、二極化の時代だ」というものがあります。また、「同じような使命や、考え方を持った魂同士が集合化していくので、他の概念を持った集団とは次元が異なることで、今後は世界も別つことになる」なんて表現をされている方も散見されます。確かに、ITシステムの普及もあって、同じ考え同士の集団が凝集化しやすくなっていることを考えると、それも当然かも知れません。ただ、「心地良さ」のものさしで分断された、「隣は何をする人ぞ」的な世界が、本当に私たちが望んできた世界だったのか?と、再度問い直す必要があるように思えてならないのです。

 

 

 釈さんは、

 

「どうしても信じられないという信仰」や、
「信じられない宗教心」の存在

 

を認めることの大切さを述べています。

 

 

「あちらはあちらの価値観なんだから、別にこっちとは関係ないわ」

 

 

 

この一見、平和的で大人的な在り方に正面から「NO」を突き付けてくれたのが、コロナではなかったでしょうか?

 

 

「なんか違うんじゃない?」
「それってどうなの?」
「わたしはそれ、信じられない!」

 

 

そうやって個々人がオリジナルの「異論」を唱えられた時、少なくとも私たちの前には、「どうぞご勝手に」といって抹消してきた、「なかったことにしていた存在」が再び輪郭をもって立ち上がってきます。

 

 

多様性って、「自分は自分、あなたはあなた、それでOKよね!」になることじゃない。でも、これならまだマシかも知れません。どこを見ても、「自分、自分」「自分、自分」「自分、自分」の世界となった時、この世界の本当の意味での分断が完成するのではないでしょうか?

 

 

「あなたのこの部分はわたし。わたしのこの部分はあなた。同じだし、違うよね!違うけど、同じよね!」そんな矛盾を抱えられる力を試行錯誤しながらでも育てた先に、たどり着きたい本物の多様性の社会が待っている、わたしには、そんな気がするのです。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき