わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

信じる才能、飛び込まない才能

f:id:miyuki_sato:20210623082905j:plain

夏コスモス

 

 ここ数年、季節のスペクトラムが以前にも増して複雑になってきたなあと感じます。つい先日もいつものコースを散歩している途中で、思わず目を疑ってしまいました。コスモスが咲いていたのです。調べてみると「夏コスモス」と呼ばれている品種だそうですが、それにしても去年は見かけなかったと思うのです。

 

gendai.ismedia.jp

 

 先月から、浄土真宗の僧侶である釈 徹宗さんと、キリスト者の若松英輔さんによる、こちらの往復書簡を興味深く読ませていただいています。お二人の広く大衆に向けて書かれた文章も、それはそれで心に響くものがあるのですが、「ただ一人」に向けて書かれたこちらの往復書簡はまさに「智」と「智」のぶつかり合い、せめぎ合い。読後も、「あ~いいこと書いてあったな~」では終わらない、何と言うか”華厳”が広がる心地がします。

 

 

 テーマは「信じる」こと。最初は宗教というものを通しての語りに思えますが、実はそうではなく、わたしたち誰もが経験する可能性がある、「信じている」という状態についての考察です。

 

 

釈さんは文中では「信じている」状態のことをこのように表現しています。

 

 

宗教の信仰は決して個人の中にとどまりません。信じている状態は、共鳴盤が振動しているみたいなものです。振動しないとそもそもその共鳴盤は無いも同じです。振動して初めて共鳴盤があったことがわかります。そしてその振動は他者の共振現象を起こします。つまり、ある“もの語り”を共有することになるわけです。この「もの語りを共有する喜び」は、おそらく何千年何万年も変わらないものでしょう。人間にとっての根源的な喜びだと思います。そこに人間にとっての宗教の琴線があります。

 

 

 

つまり、「信じている状態」とは、他者との共振現象であり、「もの語りを共有する喜び」であると述べています。これは裏を返せば、「たったひとり」きりで、自分の中で語られている「ものがたり」を信じることの困難さを表しているのではないかと感じました。ここに宗教が「信者」なくしては成立しない理由もあるように思います。極楽浄土の物語を聞いて、互いに慰めあったり、励まし合ったり、永遠の命や罪の赦しについて聞いて、安心したいのです。ひとりでは難しいでしょう。

 

 

しかし・・・と釈さんは続けてこう述べます。

 

 

自覚しなければいけないことがあります。それは自らの信仰は他者を傷つける可能性をもつということです。自分の信仰の加害者性に自覚的になることが大事です。信仰というのは“もの語り”が異なると、どうしても折り合えないところがあります。ですから、ついつい信仰を持っている人は、他の“もの語り”に無自覚になったりするのです。信仰というのは、そもそも他者を傷付ける可能性を持っている、そこに気がつかねば、「信じる」という営みは深まっていきません。

 

 

つまり、「何かを信じる」、と言うことは、誰かを傷つける可能性がある。そこに自覚的でなければ、「信じる」という営みは深まらないというのです。

 

 

これはなんだか耳が痛い話です。「信じる」という状態は「疑う」という状態よりもどこか崇高で神聖な趣を放っています。「信じられぬと嘆くよりも、人を信じて傷つく方がいい」なんて歌の歌詞もありましたが、「信じる」ことそのものが、既に誰かを傷つけている状態だという自覚がわたしにあったか?と問われると、なかったと答えざるを得ません。

 

 

そして更に、釈さんは、「信じる」ということは才能のひとつであると述べた上で、一方で、「どうしても信じられないという信仰」や、「信じられない宗教心」の存在を認め、それを「踏みとどまる才能」、「飛び込まない才能」と命名しています。これを読んだ時に、雷に打たれたような衝撃が走りました。これらの才能を持っている人達を無視した時に、各々の「信じる状態」群同士のかけ橋が崩落し、偽りの多様性社会の促進を許してしまうのではないかと思ったのです。

 

 

釈さんも、その点に関してはこうおっしゃっています。

 

 

とにかく、「信じる」はあぶないんです。「信じる」というのは、左右どちらに落ちても大きく道が逸れてしまう剣が峰を歩くようなところがあります。

 少し話が横道に逸れましたが、「信じる」という事態はそんなに確たるものではありません。むしろ「しっくりこない状況」が続きます。いつも異質なものへのチューニングしているような状態です。しょっちゅううまくいかなくなるものなのです。でも、チューニング自体がとても宗教的なのだと思います。

 

 

昨今わたしは常々、「矛盾がないように見えるもの」が一番危ないと思っています。「真実を見つけちゃった!」とか「世の中の本当の真理が分かっちゃった!」、「ここに居れば大丈夫!」みたいな万能感にかつて心酔した時期がありましたが、こういう時が人生で最も視野が狭くなっている、危険な状態なのですよね。

 

 

釈さんの結びの言葉が実に秀逸です。

 

 

宗教同士が“わかりあう”には独特の困難さがあります我々の往復書簡も、これから微妙にズレることが何度か起こるはずです。でもそのズレを大切にしたいと思います。同一化しようとせず、包括しようとせず、呼応し合うといいますか、共鳴し合う「信」、それを目指したいと考えております。

 

 

 

真に「信じるという」状態は、流動的で「信」と「疑」の往復運動のようなもの。自分自身においても、また対他者との関係においても、なのかも知れません。

 

 

釈さんへの若松さんの返信がまた素晴らしいです。ご興味のある方はぜひ読んでみてください。

 

 

gendai.ismedia.jp

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき