ウクライナ情勢に関する報道が、連日深刻さを増してきています。真っ白な雪道を、踏み潰すように猛進する戦車の群。黒煙が立ち昇った火力発電所。それらの映像をテレビ画面で見ながら、この十数年、幾たびとなく襲われた同じ意識状態にさらわれて行きそうになっている自分を「ここ」に取り戻すべく、ある本を手にとりました。
『他者の苦痛へのまなざし』スーザン・ソンタグ著
冒頭、著書にはこう綴られています。
現代の生活は、写真というメデイアをとおして、距離を置いた地点から他の人々の苦痛を眺める機会をふんだんに与え、そうした機会はさまざまな仕方で活用される。残虐行為の写真は、対立する反応を引き起こすかもしれない。平和への呼びかけと報復への呼びかけ。あるいは単に、恐ろしいことが起きるものだという呆然とした意識。それは映像の情報によって絶えず補強されている。
こう述べた上で、著者のソンタグは、「しかしながら、人々が苦痛する映像は、戦争を抑止する効果が本当にあるのだろうか?(いや、ないのではないか?)」と、疑問を投げかけてくるのです。
その理由として、ソンタグは、キリストの受難を描いた無数の絵画や彫刻の歴史等を分析し、我々には、苦しみを受けることを美化したり、それを受けた者を思いやることで、信仰や忍耐、霊感を与えられるといったことと結びつける傾向があること。もっと言えば、
「苦しむ肉体の写真を見たいという欲求は、裸体の写真を見たいという欲求とほとんど同程度に強い。」
と言及しています。
この辺りの感覚は、キリスト教人口が少ない日本人には馴染みが薄く、「え?そうかな?」と思ってしまいますが、歴史上、自分の命を犠牲にして戦った殉教者たちへの哀惜を讃えたドラマや映画が今世にもヒットする理由を思うと、さもありなん・・と、思えなくもないわけです。
ソンタグは、テレビから放映される暴力シーンを観て、人々がチャンネルを切り替える様子について、
人々がチャンネルを切るのは、暴力のイメージを常に提供されて無関心になっているという理由だけではなく、恐れているからである。(中略)・・・海外の人々が恐ろしい映像を見せるテレビのスイッチを切るのは、例えば、ボスニアの戦争が止まないから、指導者たちがこれはどうしようもない状況だと主張するからである。人々の恐怖にたいする反応が鈍るのは、どの戦争も止めさせることができないように思われるからである。同情は不安定な感情で、行為に移し変えられないかぎり、萎れてしまう。問題は、喚起された情報や伝達された情報をどうするか、である。「われわれ」にできることは何もないーだがこの「われわれ」とは誰か?ーまた「彼ら」にできることは何もないー「彼ら」とは誰か?ーと感じるとき、人はうんざりして冷笑的になり、何も感じなくなる。(中略)・・・戦争の苦しみはテレビのおかげで、夜毎の陳腐な番組と化した。かつては衝撃を与え怒りを喚起した映像が溢れるなかで、われわれは反応する能力を失いつつある。他者を思いやる気持ちは極限まで行使されると麻痺する、というふうに一般的に分析されている。
と述べています。
生来私たちには、他者の苦痛を感じとる「思いやり」も、困っている人がいれば「何かしたい」という行動力だってある。でもだからこそ、不可抗力だと思える苦痛を前にして、行き着く先が「無関心」とは、なんという皮肉なのだろうと思わずにはいられません。
そこから目を逸らすな・・・でもなく、実際に火事場に飛び込め・・でもなく、この今ぎりぎりで保たれているあまりにも脆い世界の均衡とどう向き合っていけばよいのか。必死に探すけれど、未だ答えは出ないままで居ます。
きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき
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写真を眺めてほっと一息^^