わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

子どもを亡くすことに比べたら・・と言われることの悔しさと悲しさ

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このひと月、悲嘆(グリーフ)に関する本を
何かに突き動かされるかのように
つぎつぎと読んできました。

 

来年への準備と言う理由もありますが)
どう抗っても、
自分ではもう手の施しようがない
この悲しみの行方(終着点)を知りたい。

また、


「こんな状態なのは、自分だけではない」
ことを単純に感じたい
と言う気持ちもありました。

 

 

でも、一番の理由は、

 

「今でなければ、受け取れないものがある」

 

そんな衝動からではなかったか?
と感じています。

 

 

今日まで、たくさんの方から、
その都度その都度、
温かい言葉や、優しい気持ちをいただき、
新しい日々の再構築をどうにか進めていますが、
そんな中で、不意打ちのように、

「どうかお願いですから、
今はその言葉だけは言わないで・・」

 

と悲鳴をあげたくなるような
やり取りに出逢うことも
正直、間々ありました。

 

 

そのうちの一つ、
ある方から言われた、

 

 

「子どもを亡くすことに比べたら・・・。
(あなたの方がマシよ)
ね、犬はまたその内飼えばいいんだから。」

 

 

と言う言葉の矢は、しばらくの間、
わたしの心にぐっさりと刺さったまま
抜けることはありませんでした。

 

ちなみに詳細をここに付け加えますが、
その発言をした方(女性)は、
息子さんのお嫁さん(つまり義理の娘さん)を
がんで亡くされています。

 

 

わたしを慰めるつもりだったのでしょう。
悪気だってないことくらい、
わたしにも分かるのです。

 

 

でも・・・

 

 

子どものない夫婦の我々にとり
ベルは犬ではなく、
「娘」同然の存在だったのです。
唯一無二。
代わりなど世界中どこを探したって居ないのです。

 

ただ、そのことを第三者に分からせようと
わたしがいきり立ったところで、
やはりベルが「人間」ではなく
「犬」であると言うのは、
自明の事実です。


それに、わたしにも「人間の子ども」を
喪った経験はありませんから、
彼女に「人間の子どもを喪った人の気持ちなど
分からないでしょ!」と言われてしまえば
それまでのこと・・・

 

ああ、それでも・・・
何かがわたしの中では、
釈然としなかったのです。

 

 

誰かの悲嘆に
”比較”を通してでしか
寄り添えないなんてこと・・
そもそも根本的に、
捉え方がどこか間違ってるんじゃないのか?

 

 

モヤモヤしたまま過ごしていたある時、
世田谷事件の被害者遺族である
入江 杏さんが、それぞれの分野、
視点を持った6名の著者との対談を
文書化した、
『悲しみとともにどう生きるか』
と言う本に出逢いました。

 

 

 

 

どの著者との対話も本当に素晴らしく、
グリーフケアについて考えさせられる内容なのですが、
登壇者のおひとりである、
小説家 平野啓一郎さんの「分人主義」と言う考え方は
わたしが感じていた言葉にならないモヤモヤに、
ひとつの光明をともしてくれたように思います。

 

 

平野さんは「分人主義」と言うものを

 

対人関係や場所ごとに自分を分けて相対化してみる。
会社にいる時の自分。
家庭にいる時の自分。
気の置けない友人たちといる時の自分。
もし、会社にいる時の自分が辛いのなら
その「分人」を生きることをしばらくやめてみて
もう少し心地いい「分人」を生きる時間を
増やしてみると言う考え方である・・・

 

 

と定義した上で、著書の中でこのように述べています。

 

 

(前略)僕たちは自分が愛している人との分人を生きたいわけですけど、その相手を失うことによって、それができなくなってしまう。その辛さが愛する人を亡くした時の大きな喪失感ではないでしょうか。
 だけど、生きている人たちとの関係の中で新しい分人をつくってみたり、今まで仲がよかった人との分人の比率が大きくなっていくことで、その後の人生を続けていくことができるはずだと思います。そういう意味で、最初の話に戻りますけど、辛い状況にある当事者の人に対して、自分はどう接したらいいかわからないと立ち止まるのではなく、その人に辛い分人だけを生きさせないために、新たな分人をつくることができるような関与をすることが大事ではないでしょうか。(後略)

 

 

例えば、ベルと一緒に過ごしていた時の
わたしと言う人間の
「分人割合」をグラフにしてみると、

(平野さんが客観視するためにやってみることを
著書で勧めています)

 

 

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こんな感じだったように思います。

 

実に半分以上が「ベルのママ」と言う
分人意識で暮らしてきたわけです。

 

 

それがベルを喪ってしまった今、

 

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わたしのアイデンティティは、
半分以上がぽっかりと空洞で
すっかり脆くなっている・・・
と言うわけです。

 

気分が時に不安定になると言うのも
ある意味では仕方がないのかも知れません。

 

 

 

この「分人」と言う考え方を知った時、
先の「子どもを亡くすことに比べたら・・」
と言ってきた女性のことを思いました。

 

 

彼女にとっての「お嫁さんの喪失」は、
ひょっとしたら、彼女の「分人」の
90%だったかも知れないし、
70%だったかも知れない。
65%だったかも知れない。
それこそ個人的なことだから
分からないけれど、
でも、そこには、
「人間の子ども」だからとか
「犬の子」だからと言ったことは
本来まったく関係がないのです。

 

 

そして、喪失した「分人」の空白部を、
この先、生きてゆくために
時間をかけて再構成し直してゆく、
その道程に訪れる切なさや苦しみには、
お互いに何の違いもないのです。

 

 

このことが分かった時、
わたしの心に刺さったままだった矢は
彼女への柔らかな思いやりに
ゆっくりと変容していったような気がしました。

 

 

と、同時に、
個人にとっての悲嘆と言うものは、
決して「比較」できるようなものではないことを
改めて再確認できたような気がしたのでした。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき