わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

エスノメソドロジーの視点で日常の当たり前を見直すと?

f:id:miyuki_sato:20201001131413j:plain

 

先週末は大学のオンライン授業に始まり、
同日午後には参加させていただいている
アート思考研究会のセミナー、
更にその翌日には高橋和巳先生の
見立て8型の臨床セミナーと
怒涛のようなインプットが続き、
ひとつひとつの内容から得られた気づきが
ボリューミー過ぎて消化できず、
しばらくの間、フリーズ。
アプトプットする気力がまるで湧いてきませんでした。


ですが、数日経ってみて、
心境がようやく落ち着いてきた今思うのは、
3つのセミナーとも、まったくその方向性や
ジャンルは違っているようでいて、
実は、それらがわたしに
語りかけてくれた内容は
まったく同じことだったのかもしれない、
と言うことでした。


それと言うのは、
「いま、ここをみる」と言うこと、
なんですが・・。

  

そんなわけで、先ずは、
大学のオンライン授業で扱ったテーマである
「エスノメソドロジー」と言う
社会学の視点の学びから、
振り返ってみたいと思います。

 

 

「エスノメソドロジー」と言うのは、
社会学者のH・ガーフィンケルが作り出した言葉です。
「エスノ」は「一般のひとびと」や「民族」や「民衆」を意味し、
「メソドロジー」は「方法論」を意味します。

 

つまり、「エスノメソドロジー」と言うのは、
「私たちが日常を生きていく場面で用いている方法論」
と言うことになります。


でも、これだけでは何のことかさっぱり?ですよね?^^;

 

オンライン授業では、先ずこんな動画を見せてもらいました。
2分少々の動画ですので御覧になってみてください。
(「エレベーター実験」)
↓  ↓  ↓

www.youtube.com

 

 

映像の会話は英語ですが、
見ればすぐに、そこでどんなことが行われ、
また、そのことの「何」について
人々が嘲笑しているのか分かりますよね?

 


そう、動画の中の一人を除き、
後は全員実験の「さくら」です。


エレベーターに乗ると、
自分以外の人は”ドアとは反対向き”に乗っています。
さあ、あなたはこんな時どうしますか?

 

動画では、他人の動作に同調するようにして
向きや行動をいとも容易く変化される
実験対象者の姿が映し出されています。

 

私も実験対象者の”風見鶏”っぷりがおかしくて
ついつい笑ってしまったのですが、
でも考えてみたら、こう言うことって
御多分に漏れず、わたしにとっても
日常茶飯事なのでした。

 

 

例えば、電車に乗った時はどうでしょうか?
自然と向きを目の前の人に合わせてはいないでしょうか?

 


また温泉旅館に泊まり、
大浴場を利用したときなどはどうでしょうか?
何故か大浴場の真ん中に座することは避け、
みな、縁の部分に弧を描くようにして、
パーソナルスペースを確保することが
多いのではないでしょうか?

 

この、今となっては当たり前すぎて、
その理由やルーツを突き止めることさえ困難を極める
日常に根を下ろしてしまっている「秩序」。
そこに息づく我々の具体的な営みを
「いま、ここ」で、
”観察”と"聞き取り調査"による
フィールドワークを通して
徹底的に探っていく・・・
これが「エスノメソドロジー」なのです。

 

 

先ほどのエレベーター実験や、
電車の乗車向きのような例を見ると
「同調圧力」の問題を思い起こす方も
多いかと思うのですが、
エスノメソドロジーで扱っているテーマは
「同調」を問題視することではなくて、
その「同調」に至った
プロセスの要素そのものなのです。

 

考えてみたら、
「当たり前」になってしまっていることに
敢えて気づくと言うのは難しいものです。
ましてや、それがどうして
そのように「秩序立て」されたのか?だなんて
「エスノメソドロジー」と言う言葉と
出逢うまでは考えもしなかったわたしです。

 

 

オンライン授業の後、
授業中に紹介されたこちらの本を
読んでみました。

 

 

著書の中に、こんな件がありました。
著者が身体に障がいを持ち車椅子に乗った友人Yさんと
街で自分がしゃがみ込んで目線を友人に合わせて
世間話をしていた時のこと。

 

通りすがりの男性が、
「何かお困りですか?手伝いましょうか?」と
声をかけてきたのだそうです。
Yさんは「大丈夫です。ありがとう。」と
男性に返事をします。

 

著者は、その男性の行動は何も間違っていないと
前置きしたうえで、
「障がい者には、声をかけ、手助けすべきだ」
と言う「強固なあたりまえ」が
この世界には存在し、
これは大切なことではあるけれども、
一方で、障がいを持った人とは
「介助」と言う「入口」からでしか
つながることができない世界があることを
意味していると説いているのです。
これには、なるほどな・・と思いました。
「介助」ではなく
「音楽」でつながれることだって
あるかもしれないし、
「スポーツ」でつながれることだって
あるかもしれないのに。


そうやって、私たちが当たり前に
疑いようもなく日々繰り返している考え方や
行動を見直してみると、
確かにそこにはもっと別の可能性が
無限に存在しているのかも知れません。

 

 

「エスノメソドロジー」の視点を持つことは、
私たちひとりひとりを
実践的な社会学者にしてくれるのです。

 

あなたは「いま、ここ」で、
どんな「当たり前」の
どんな「違和感」に気づくことが
できますか?

 


わたしも、探し続けたいと思っています。

 

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^

 

さとうみゆき