「人の一生は物語のようだ」・・・とよく言いますが、私は「長編小説」のような生き方をしている人に憧れがあったように思います。
分かり易い例だと、歴史上の人物とかですかね。
生まれて割と直ぐに、自分の天賦の才というか、天職の兆しみたいなものに出逢って、それを成し遂げるために苦労はするけど、その苦労を苦労とも思わず、天命というゴールに向かって自己実現をして、最後の最後には何者かになって死んでいく・・・みたいな。
最初から最後まで、ブレない「自分」というアイデンティティの中に在って、しっかりとそこに実績が積み重なっていくような人生。憧れでした。
「でした・・」というのは、ひょっとしたら私の(しいて言うのなら魂が)描いている物語はそうじゃなかったのかもなあ・・という考察に基づいてのあくまで主観です。
私の携えている”魂の物語”って、多分ですけど、長編じゃないんだと思います。
短編集がいくつもいくつもオムニバスになって1冊にまとまっている小説ってあるじゃないですか?主人公も物語ごとに別々で。あれみたいな在り方を根っこに持っているのかも知れないと思ったんです。
同じ場所で、同じことができない自分をずっと社会適応できない人間だと情けなく思っていました。継続が出来ないことは、欠点で、短所だとも思っていました。
ただ、不真面目なわけじゃなく、むしろ、関わったことは誰より真剣に真面目に取り組んでいる自負もある。でも、あるところまで行くと、「これはもういいかな」って思ってしまう。
で、長編小説への憧れは捨てきれないから、次こそ絶対に踏ん張ってやろう!と思うのだけど、それはもう無理で。^^;
それを嫌になるほど繰り返して来て、自分を情けなく思う視点だけが強化されてきたんだけど、いい加減、もうそれは手放そう・受け入れよう・諦めようと思い始めました。
1つ1つ違う物語を生きる、沢山の主人公になって、いろいろな経験がしたかったんだと思います。最後の最後に、その沢山の主人公の物語が1つの物語として俯瞰できるようなオムニバスになれば、それはそれで面白いんじゃないか?
ポイントは、その1つ1つを真剣に楽しめたらそれでいいってところ。
先日、「自分は何事も長続きしない」というお悩みを聴いたのですが、30年近く、同じ悩みを抱えてきた今の私がたどり着いたのは、こんなナラテイブです。
足掻きたいときは、思いっきり足掻いたらいいと思う。
自分を責めてもいいと思う。
それがいつか、バラバラに見える自分を支える、一つの物語となる日まで。
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
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写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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