わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

調和とか多様性とか

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 一見すると、なんてことの無い普通の場所なのに、なぜだか気になって、もう一度訪れずにはいられないと言う場所に間々出会います。この写真を撮った時もそうでした。そこは、いつもの散歩コースから少しだけ外れた、休閑地の畑でした。一面、薄紫の花をつけたホトケノザと、ぺんぺん草、それからイヌフグリが互いを折り重なるようにして、茫々と生い茂っていて、観れば観るほど、この時期としては、まあよくある光景なのでした。けれど、前回来た時と違うのは、今回はカメラを持っていると言うことです。

 

 

「ここに呼ばれちゃったんだから、仕方がない。撮れば何か解るのかも知れない」

 

 

いつもだいたい、こんなささやかな気持ちでレンズを覗くのです。そして、だいたい、その「ささやかさ」が、実はとんでもない深淵の入り口であったことを知って、自分でも驚く。このパターン、いと多し。

 

 

 正直に告白すると、この日、撮っている最中には何もピンとくる瞬間はなく、「あ~、春なのだな~。ここから再び収穫へのサイクルが始まるのだな~」ぐらいのことしか、思い至っていませんでした。しかし”それ”は、データを編集している時に起きました。

 

 

「あ・・・この色って・・・」

 

 

自分でも自分の脳内回路の突拍子なさに笑ってしまいました。思い出したのです。志村ふくみ先生の『語りかける花』の中で書かれていたこんな一節を。

 

 

 今日、本をよんでいたら、「緑と紫は、けっしてパレットの上で混ぜるな」という警句を発見した。緑と紫は補色関係に近い色であるが、それを混ぜると、ねむい灰色調になってしまう。だが、この二色を隣り合わせにならべると「視覚混合」の作用で美しい真珠母色の輝きを得るというのである。これは全く、同感、実感である。(中略)どんなに美しい色を混ぜ合わせても、決してこうはならないのである。(中略)この二つの色を混ぜ合わせればお互いは死ぬのである。反対にこの主調を生かせば、色は輝くのである。

 

 

 

語りかける花 (ちくま文庫)

語りかける花 (ちくま文庫)

 

 

 

 これはつまり、自然に存在する色同士と言うのはお互いに決して混ざり合うことはないけれど、重なり合うことで美しい調和を奏でていると言うことを仰っているわけです。それを志村先生は、一本、一本、独立した色の糸を重ねていく”織り色”の中で発見したと言うのです。この一節を読んだわたしは、以来ずっと思っていました。

 

 

「緑と紫が重なり生み出した真珠母色をわたしもいつかこの眼で見てみたい!」

 

 

と。そして、自分でも気づかない内に、それを教えてくれる場所を見つけ、そうとは知らないままに自分ごとそこへ運んで行ったのでした。

 

 

果たして、レンズが捉えたホトケノザの薄紫と他の植物の葉の緑が織りなす空間に広がっていた色は、ご覧の通り。ほんのりと黄味を帯びた艶と渋さを兼ね備えた白。まさしく”真珠母色”ではありませんか!志村先生が見た色と同じかどうかは定かではありませんが、この眼で確かめられた歓びに、わたしはしばし浸りました。

 

 

 これとは別の「織色」と言う章で、志村先生はこうも書いています。

 

 

 人もまた、他者との、かかわり合いにおいて他と混同することなく、互いに調和をつくり出してゆくことをそれは示唆しているのかも知れない。

 

 

 多様性を認めることや異文化との調和を論じはじめた昨今のわたしたちは、人と上手く折り合ってゆこうとするとき、ややもすると、相手と自分をとにかく混ぜてみよう、その混ざった部分から平均をとった答えを創り出そうとしてはいないでしょうか。けれど本当の調和とは、混ざった場所にではなく、1本の独立した色彩を持った糸のような個と個が、美しく整然と重なってゆく場所にこそ生まれるのではないか?志村先生の文章はそんなことを私たちに訴えかけてきます。だとしたら、自分は色が濁った世界に居たいのか?居たくないのか?居たくないのだとしたら、じゃあ、どうしていけばいいのか?ホトケノザとぺんぺん草と、イヌフグリの写真を眺めながら、この世の唯一無二にしてか細い1本の糸であるわたしは、きょうも考えています。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき