わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

折れてみて初めて見えた鬼の角

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ベルの初七日が終わりました。


部屋のスペースをあらかた占めていた
未開封のままの
ドッグフードやペットシート、
その他諸々のグッズはすべて、
夫と相談した結果、
ベルがお世話になった
トリマーさんのご紹介で
保護犬の活動をしている
NPO法人に寄付することになりました。
被災地で救助された
老犬専門のNPO法人だったため、
シニア犬グッズを大量に持参したところ
とても喜んでもらえました。
これはベルも
嬉しく思っているのではないでしょうか?
こうやって少しずつでも
気持ちを切り替えてゆくことが
必要な時かもしれません。

 

このところ、夕暮れ空の温かさに
心が慰められています。

 

わたしにとっていま、黄昏時は、

 


「おやすみ、また明日ね...」

「バイバイ、またね…」

 

 

そんなごく普通のことを
当たり前に言い合えることが
どれほど幸せなのかを
改めて噛みしめる
切なく悲しいけれど
愛しい時間になりました。

 

また、ベルを見送ってからと言うもの、
以前のように自分の欠陥だったり
生きる上で障害だと思しき原因を発見、改善して、
いわゆる世間一般的に考えられている
”生きやすい”状態の
何者かになってみたいと言った欲求が
スコンと抜け落ちてしまった気がしています。


あまりの痛みに麻痺をして、
悲しみや苦しみのバロメーターが
振り切って鈍感になってしまったせいなのか?

 

はたまた、


聡く生きられなかったり、
他人との関りを器用にこなせない
自分の悲しみや苦しみなど
愛する存在を
永遠に失ってしまうことに比べれば
造作もないことだと
思ってしまったせいなのか?
それはよく分からないのですが・・・。

 

 

このような心もとない状況の中、
先日、たまたまアマゾンの
おすすめに流れてきた、
『ヤンキーと住職』
と言う本(漫画)を読みました。
(kindle unlimitedに
契約されている方は無料で読めます。)

 

 

 

ヤンキーと住職 (コルクスタジオ)

ヤンキーと住職 (コルクスタジオ)

  • 作者:近藤丸
  • 発売日: 2020/10/25
  • メディア: Kindle版
 

 

今年、たまたま大学で
仏教の授業を受けていたこともあり、
仏教用語の紹介をはじめとした内容は
非常に馴染み深いものがありました。

 

そんな中、とりわけ
心惹かれる言葉がありました。

 

 

それは、漫画の中に引用された
念仏詩人:浅田正作さんの

 

『折れてみて初めて見えた鬼の角
折れた思いが また角になり』

 

 

と言う詩でした。

 

books.google.co.jp

 

 

↑こちらでこの詩が
どのように引用されたのかを
見ることができます。

 

 

完璧でないわたしたち人間は、
人間関係や毎日の生活を通して、
過ちを犯すけれど、
その都度、学び、気づき、
自己研鑽し、
成長していきます。

 

例えば、他人を傷つけてしまった時などは、


「ああ、私はここに配慮が足りなかったんだ!」
「申し訳なかったー!」

と思って内省し、
同じことを繰り返さないように
改めようとします。

 

そう思えるのは、
それまで見えていなかった
自分の頭から生えていた
他人を無意識の内に
刺してきた角がポキっと折れて
ちゃんと見えるようになるからだと
詩前半の

 

折れてみて初めて見えた鬼の角


は説いています。

 

 

ところが、この詩は
ここでは終わりません。

 

折れた思いが また角になり

 

と続くのです。

 

「わたしは、ここに気づくことができた!」
「わたしのあの角は折れたんだ!
(だからもう私にはあんな醜い角はない!)」

 


そう言う思いからすぐにもう
次の角が生え始めると説いているのです。

 


 

今回、ベルの死を通して、
わたしは自分の身に余るほどの
大切な気づきや学びを得ました。

 

 

けれど、ひょっとしたら、
そこからもう、
次の「角」は
にょきにょきとたくましく、
生え始めているのかも知れない・・・。 

 

 

そのことを、決して忘れないように。

 

 

浅田正作さんの言葉は、
ずっしりとわたしの腹まで
沁みてくるようでした。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

新しい暮らしの音

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ベルを失ったあの日から、
間もなく1週間になろうとしています。

 

今でも悲しいことは悲しいし、
淋しいことは淋しい・・・
それは変わりません。
ただ、その「質」が
どこか変わってきたのを感じています。


一晩眠って目覚めるごとに
心の中のスペースには、
穏やかで愛しい想いが満ちてきている・・・


ああ、何も変わっていない。

 


ベルがこの世に居ても、居なくても、
その想いは何ら変わらないどころか、
以前にも増して、
ずっとずっと強くなっている。

 

 

そのことに気づくたびに、
ベルを失ってなお、
こんなにも「幸せ」だと思えることに
涙が込み上げてくるのです。

 

 

 

そうそう、最近、こんなことがありました。

 

 

ある方から年末に
フォトレッスンのご依頼を頂きました。
屋外でのマンツーマンレッスンになったので
お受けして、レッスンの日程を調整していた時のこと。

 

最初にご希望だった日程が、
当日現地が閉館日とのことで変更になりました。


改めてご希望日を伺ったところ、
その日はリモートワークの夫が
珍しく出社する日と重なっていました。

 

 

一瞬のうちに、
「あ、どうしよう、夫にひとこと断らないと!」
と言う思考回路が自動発動しました。

 

何故なら、今までは何かにつけ
淋しがり屋のベルを
出来る限りひとりぽっちにしないように、
必ずどちらかが自宅に居て、
面倒を見るようにしていたからでした。

 

 

でも、もうその必要はないのです。
これからは、自分の都合と意思で、
仕事も、友達との予定だって
自由に入れられる・・・。

 

 

この14年間、私たちはこんなにも
ベル中心の生活をしてきたんだなあ・・と
改めて思い知らされた気がしました。

 

 

私たち夫婦の日々に、
いま、少しずつ
新しい暮らしの音が鳴り始めています。

 

そしてこの耳慣れない「音」に、
しばらくははっとしたり、
驚いたりするのかも知れませんが、
しっかりと聴いて味わってゆきたいと思っています。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^

さとうみゆき

今日からモルヒネパッチが始まった

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きょうは久しぶりに近所へ散歩に出かけた。
空が綺麗でびっくりした。
そんなにびっくりすることでも
本当はないんだろうけれど、
日常とか日常にあった人やモノが
随分と遠くになってしまった気がして
・・・だからかも知れない。
もう自分が今どこの世界にいるのか
ふと分からなくなる。

 

 

朝一で動物病院へ行き、
エコー検査をしたところ、
腹腔内出血が広がっており、
水もだいぶ溜まっていて、
もう長くはないこと、先生から告げられた。
 

ベルが少しでも苦しくないようにと
モルヒネパッチが背中に貼られた。

 

食べるものも、ベルが食べられれば
何を与えてもいいですよと言われた。
だけど、今もって
今朝から水以外は何も食べられていない。
 


きっと、本当にあと少し、なんだと思う。


 
どうしよう・・・

 

なんて誰に言っても仕方がない言葉を
空に呟いてみるけど、
誰に届くわけでもないし、
むろん誰かがどうにかしてくれることでもないから。

 

わたしも、ベルと一緒に
どこかへ行ってしまいたい。
疲れた。

〇〇のおかげでと言う時の対象をもう一度吟味する

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一昨日くらいから、ベルが以前にも増して
弱ってきており、ひょっとすると
この週末あたりがアブナイのでは?と
24時間体制で見守りが続いていたため、
なんだか気持ちも体力的にも切迫し、
熟睡感がないのでふらふらしています。
そんなベルを見ているのは辛いです。正直。
少しずつ、「いま、出来ること」が減ってきていて、
最期に残るのはきっと、
「どうかベルができるだけ苦しまずに
天国へ行けますように」
なのでしょう。

「苦しまずに天国へ行けますように」

 

これ、当初は一番望まず、
願っていなかったことです。
でも、今は、それが一番の願いだなんて・・。
その皮肉に気づいた時、
ただ、もう、泣きました。
最近、涙の理由がよく分からないのです。
悲しいのか、苦しいのか、
愛しいのか、嬉しいのか。

 

こうなった今、
夫が完全リモートワークで
ほぼ自宅に居てくれることを
改めて本当にありがたいと思っています。

 

もし、以前と変わらず、
日々日々会社に出勤し、
毎月の海外出張もこなし・・だったとしたら、
わたし一人でベルの動物病院、
夜中の世話・介護、迫りくる死別への恐怖、
受け止められていたかな?と想像するだけで
恐ろしくて震えてきます。

 

 

こんな時、つい、
「コロナのおかげで・・・」
なんてフレーズを無意識に
使ってしまっていましたが、
これ、違うよなあ・・
なんて短絡的だったんだろう、
と考えを改めました。

 

「コロナのおかげで~~できた。」

みたいな表現って、
(別にコロナじゃなくても
不条理な出来事全般に当てはまりますが)
どんな困難に対しても
”前向き”に捉えて進む姿勢を促進するし、
一見すると悲観してしまうよりは、
何かメンタル的にも有意義なんじゃないかと
思えたりもしますが、
この頃思うんです。


先ずは、

「コロナのせいで・・・」

「コロナのせい」

って思いっきり言っていいんじゃないかなって。

 

だって、夫が完全リモートワークになったのって
「コロナのおかげ」じゃなく、
「コロナのせい」なんですよ。
じゃあ、リモートワークは
誰のおかげなのかって言ったら、
社員の健康を第一に考えて、
いち早くリモート体勢を整えてくれた
夫の会社のおかげなんですよね。

 

そこを「コロナのおかげで・・・」って
やっていたとしたら、
この騒動が終わった時に
会社への感謝もきっと、
一緒に忘れられちゃいます。
でも、ちゃんと「会社のおかげで・・」
が認識出来ていたら、
騒動が終わった時、多少なりとも
自分の家族や本人が所属している場所への
感謝や愛着が増すのではないでしょうか?

 

だから、あなたが無意識に
「コロナのおかげで・・」
って枕詞の後に、
自分が受けた恩恵を口走っていたとしたら
少し考えてみませんか?


先ずは、


「コロナのせいで・・・~できなかった」
「コロナのせいで、~~になって悔しい!」

でいいんです。だって、本当のことだもの。

 

 

それから、この不条理な状況下で、
本当の意味であなたのことを思いやってくれた
人、場所、出来事について
しっかりと「~~のおかげで」って
認識をして覚えておくこと。

 

 

わたしの場合ですが、今年は
本来は対面で開催されるはずの
心理学の講座やセミナーが
オンラインで開校され、
遠方の講義も現地に行かずに
zoom等で受けることが出来ています。
でもそれは、「コロナのせい」であって
決して「コロナのおかげ」などではなく、
不自由な条件の元であっても
オンラインでの開校を選択・決めてくださった
先生たちのおかげだと思っています。

 

〇〇のおかげでと言う時の
対象が誰か?何か?を
もう一度吟味する・・・
そうすることで私たちは、
私たち自身がすでに持っている「フォース」に
改めて気づくことができ、
取り戻せるのではないかと思うのです。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
 
さとうみゆき

感覚の孤独を癒してくれた歳時記

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俳句を嗜むのであれば、
先ず「季語」「季題」に親しむことから・・・

 

と言うことで、当初は角川から出ている
持ち運びに便利な
文庫本を折に触れて眺めていたのですが、

 

 
ついにそれでは
物足りなくなってきてしまい、
(いや、多分そうなるとは思っていたけれど^^;)
図書館で借りてきて試し読みをした上で、
「これは、持っとくべき本!」と判断。
思い切って講談社から出ている
『新日本大歳時記』を5冊とも
まるっと大人買いしてしまいました!(*^^)v
もう、大大大満足です。

 


俳句で扱う「季語」の区分は、
春、夏、秋、冬、新年、に
分かれており、
それぞれの季節につき
1冊の歳時記があるので
計5冊と言うことになります。

 


こちらの大歳時記。
現在市場に滅多に出回っていない上に、
まともに買おうと思ったら
1冊7,500円もする代物。
(Amazonでは大型本は更に高値。
文庫本↓は比較的お買い得です^^)

 

 

カラー版新日本大歳時記5巻セット (歳時記シリーズ)

カラー版新日本大歳時記5巻セット (歳時記シリーズ)

  • 発売日: 2000/08/17
  • メディア: 単行本
 

 


ところがありがたいことに、
メルカリで5冊まとめて17,000円と言う
破格で出品されている方がおり、
「その金額で本当に宜しいのですか?!(驚)」
と拝むような勢いで
決済ボタンを押してしまいました。

 

実際に届いたそれらは、
装丁が恐ろしく優雅で、
ほとんど未使用なのではないかと思われるほどの
奇跡の”美本”でした。
いや~、ありがたや・・ありがたや・・。

 

 

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もともとは、
俳句を詠むために触れ始めた歳時記でしたが、
わたしにとってそれ以上の恩恵は、
歳時記を読めば読むほど
”感覚の孤独”が癒されていったことでした。

 

 

 子どもの頃から、
一晩寝て起きただけで
空の色が昨日とは違って見えたり、
月が優しそうに見えたり、
冷たそうに見えたり、
同じ場所なのに昨日通った時とは
まるで違う空気の匂いがすることが
面白いやら、不思議やらで、
仕方がありませんでした。

 

初夏、良く晴れた日曜日の朝。
庭にあった柿木の葉が
風で揺れるたび、
光の粒をまき散らしているようで、
それを部屋の中から見ているだけで幸せで
わーと声をあげて外に駆け出したくて・・・


その衝動がいよいよ抑えきれず、
父に「今日はどこか遠くに出かけたい!」
とお願いした時に、
「きょうは疲れてるから家に居る。」
と言われた時のがっかりした気持ちったら!

 

え?どうして?
この光の粒の輝きを見て、
どこかに行きたいと思わないなんて・・・!


わたしのこの駆け出したいほどの
幸せな想いを、
一体誰が分かってくれるの?
「そうだね、今日は本当にそんな日だよね!」
と誰が共に手を取ってくれるの?

 


振り返ってみたら、
そう言った「感覚の孤独」に襲われる機会に
わたしは子どもの頃から
無数に見舞われていて、
それをずっと持て余していたように思います。

 

 

それが、歳時記を読み始めて
一番驚いたのは、
わたしが感じていた細々した感覚的事柄が
あらかた言語化されていたことでした。
しかも、かなり”精確”に。


例えば、あの木の葉の光を見て
”駆け出した”くなる気持ち。
ーあれは季語では、
「夏きざす」とか「夏めく」と言って、
歳時記の説明を読むと、
初夏となり夏らしくなることで、
心理的にも軽快さや
解放感が生まれることとあります。

 

わたしが感じていた衝動は夏への衝動で、
それはもうずっと昔から
誰かが感じていたし、
句に詠み語り継がれていた・・
そのことが分かっただけで、
「そっか、わたしだけじゃなかったんだ」と
あの日父に分かってもらえずに
がっかりした気持ちが癒える思いがしました。

 

 

月の観え方が優しかったり、
怖かったりして違ったことも、
例えば「月冴ゆ」と言う言葉があり、
これは温度が低い、澄んだ月を指すそうです。
そうか、わたしは「月冴ゆ」の月を
”冷たい月”と感じていたんだなと分かり、
嬉しくなったのでした。

 

 

他にも挙げたら切りがないのですが、
誰とも分かちあってこられなかった
わたしの感覚は、
季語としてこんなにも脈々と、生き生きと、
この国で語り継がれてきたものだったことを知り、
益々俳句に触れてゆくのが楽しみになりました。

 

いつか、自分が撮った写真と俳句で
わたしだけの「歳時記」が作れたらいいな。
そんなことを、いま、目論んでいます。^^ 

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

俳句、はじめました

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近頃、俳句をはじめました。
きっかけは、地元で結成した
読書会のメンバーさん
の中に、
ひとり俳句を嗜む方が居り、
更には皆、「ことば好き」と言うのもあって、
「それなら、何か目標を決めて
皆で俳句を楽しんでみよう!」
と言うことになったのです。

 

 

hanahiroinoniwa.hatenablog.com

 

 

 

 

昔から詩や散文、
短歌や五行歌には
それなりに親しんできたものの、
「俳句」に関しては
何故か奥手のわたしでした。

 

そこで最低限のルールぐらいは
知っておきたいと
参考になる本を探しました。

 

 

そんなわたしが
「なんとなく」直観で
選んだのがこちらの本。

 

 

芸人と俳人

芸人と俳人

 

 

そう、お笑い芸人であり
芥川賞受賞作家の又吉直樹さんと
俳人堀本裕樹さんの対談形式の共著、
『芸人と俳人』です。

 

 

何故わたしが、
所謂、俳句の「作法」や
「季語」の役割等を述べたまっとうな(?)
俳句テキストや参考書を真っ先に
手に取らなかったのかと言うと、
初めて写真を学ぼうとしている方に
わたしが講師として
実際に気をつけていることを
そのまま自分に応用したからでした。

 

miuphotobrary.com

 

 

 

そして今回のチョイスは
やはり”吉”と出たと感じています。

 

 

わたしが俳句を詠むうえで、
もっとも知りたかったのは、
そもそも「ことば」が好きで
「ことばの力」は知っていて
ある程度まとまった文章を書く習慣のある人間が
たった17文字の中に、
どのようにして表現を洗練するのか?
と言う感覚視点でした。
これが気になって気になって
仕方がなかった。

 

 

そしてこの本はまさに、
俳句にどこか臆していた
作家又吉直樹さんが、
文章でだったら描ける自分の表現を
どうやって17文字に落とし込んでいったのか、
そのドキュメンタリーなのでした。
彼の心の動きや戸惑いは
自分のそれと重なり、
ちょっとした”突破口”になったと
感じています。

 

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(目的なく衝動買いしていたノートは
晴れて俳句ノートになりました。)

 

 

実際に俳句をいくつか詠み始めて思ったのですが、
俳句が出来上がるまでのプロセスって
わたしが写真を撮るそれと、
怖いくらい同じなのです。

 

 

こんな風に言い切ってしまって良いものか?と
躊躇もありますが、
俳句ってつまるところ「映像文学」なんだなと。
(わたしは写真も同じだと思って撮っています。)

 

 

ひとつの「映像」に対して
俳句と言う”レンズ”を得たことで
今後自分の写真が
長期的にどう変化してゆくのか、
とても楽しみになりました。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

まず足元からはじめる

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本日、誕生日を迎えました。
48歳です。あと2年で50歳。
この現実にちょっと怯みそうですが・・・。^^;

 

11月1日と言うと、
ワンワンワンで「犬の日」と言われていますが、
ケルトでは「サウィン」と言って、
今日が1年の始まりの日なんですって。
この世界のどこかで「新しい年(歳)」を
祝っている人が他にもたくさんいる・・・
そう思うと、なんだか嬉しくなってきます。

 


「犬の日」と言えば、
おかげ様で、ベルと一緒に誕生日を
迎えることができました。
今年はもう無理だと思っていたので、
わたしにとっては、そのことが
何よりも嬉しい誕生日のプレゼントになりました。
一時はもう危ないと言う状態でしたが、
帰省後、体調が安定し、
ゆるやかに、おだやかに、
寝たり、起きたりを繰り返しながら
過ごしています。
息をしていてさえくれたら
もうそれでよいとこの頃は思っています。

 

 



今朝、朝いちばんで、
来年から学ぶ高橋和巳先生の
カウンセリングセミナーに
エントリーし、申し込みを完了しました。

 

9月に単発開催された見立てセミナーを
受講しているのですが、
「そうそう、それを知りたかったの!」
「やっぱり、そうだよね!」
と言う内容が満載で、
何より”専門家のための”と銘打つだけあって、
現場で働く心理師の先生方の
アセスメントや、失敗例、
ケースワークの実態を聴けることが
他のどの講座とも一線を画す内容だと感じました。
特にわたしのような学部生にとっては
大学のテキストからは
どう頑張っても学べない内容ばかり。
来年は大学の講義と並行して学習して行けるので
理解のフェーズが
より深まるといいなあと思っています。

 

 

また先月末から、地元のNHK学園で
開催されている
澤村直樹先生の傾聴のセミナーにも
通い始めました。

 

 

来年もオンライン講義中心の傾向は
そう簡単には変わらないだろうと言う予測の中で、
今後「傾聴」や「カウンセリング」の
実践学習の場の
必要性を感じていました。
さてどうしたものか・・・と思案していたところ、
思いがけず地元で学べる場があることを知り、
”これも縁だろう”と飛び込んでしまいました。

 

来年は、テキストからの情報だけではなく、
実際に外来を持っている先生からの
学びを受けたいと思っていました。
1年間、大学の授業を受けてみて、
基礎と概論は学べても、
やはり実践への応用力と言う面では
決定的に欠けているものがあると痛感しました。
そこはもう自主的に補うしかないと
腹をくくりました。

 

 

実践と言う意味では、
コロナ禍が落ち着くのを見計らって
地元の傾聴のボランティアに
参加しようと思っています。

 

まずは、自分の身近から、
足元から、
小さくても一歩を踏み出すこと。
積み重ねてゆくこと。


 
新しい歳を、
より大切に過ごしてゆきたいと思っています。

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
 
さとうみゆき

この先の予定が書かれたメモ

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きょうはベルのトリミングの日でした。
ですが、この日を迎えるにあたっては
様々な葛藤がありました。

 

まず、トリミングを行う
少なくとも2~3時間、
家を離れるのは、
ベルにとってストレスにならないだろうか?
体力的に持つだろうか?
そもそもサロン側が、
ベルのような状態の子を受け入れて
くれるのだろうか?
施術中に何か起きたら
申し訳ない。
わたしも、怖い。

でも、このままもし、
ベルの容体に変調があった場合、
何の手入れもできない状態で
ベルを見送ることになるのは
あまりにもかわいそう。

 

迷いに迷った結果、
最悪、次回、病院で診察のついでに
病院のスタッフさんに
顔周りの被毛だけは
カットしてもらうことにして、
サロンにはキャンセルの連絡を
入れることにしたのです。



するとすぐに、

「ベルちゃん、どうかされましたか?」

と訊かれました。
 

お世話になって足かけ8年。
ほとんどキャンセルをしたことが
なかったからでしょう。 


事情を話すと、
お返事に驚きました。
 

「変な話、亡くなる直前の子でも
万全な体勢で、無理ない範囲で
短時間でのカットを
させていただいています。
もちろん、これまでと
同じ内容とはいきませんが。
飼い主さんの辛いお気持ちは、
よく分かってますので。」

 

てっきりベルの容体を話せば、
先方から断ってくるだろうと思っていたので、
トリミングをしてもらえると聞いただけでも
ありがたくて嬉しくて・・・
何より、迷いに迷った背景を
すべて汲んでくださっていることに
救われる思いがして、
受話器を握り閉めて
「ありがとうございますー」
と、お辞儀をしながら
涙がこぼれてしまいました。 


 

今朝、自宅まで車でお迎えに来てくださり、
出発したベルは、いつもよりも1時間ほど早く
施術を終えて戻ってきました。

 

「ほとんど毛もなくてカットしてないので
お値段引いておきましたので」

 

そう言って、
予め渡しておいた10000円から差し引かれた
5000円が私に手渡されました。
それと一緒に、
 

「これ、次回の予約の日程、
いつものように入れておきましたから」

 

と、予約カードが。
それは屈託のない笑顔で、
いつも通りの所作でした。

 

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そこには、いつもそうであるように、
3カ月先の予約が記されていました。
(とても人気のあるサロンなので
予め予約を入れているのです。)

 


長くいろいろな犬を見ていれば、
この子があとどれくらい生きられるかぐらいは
きっと予想がつくと思うのです。
これが最後のトリミングに
なるかも知れないことだって
恐らくは、分かっているはず。

 

それなのに・・・
いつもとまるで同じ対応。

 

 

ああ・・・ありがたいな。


目元が熱くなりました。

 


そして口にこそ
出してはくださらなかったけれど、


「最期のその時まで、
どうかベルちゃんとの
幸せな時間を!がんばって!」


とエール、希望をもらった気分でした。

 

そして、サロンさんをお見送りした後、
予約カードを見ながら、
嬉しくて、
また少しだけ泣きました。

 

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

気づいたら叶っていたこと

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そう言えば、
今年2月はじめのブログで
わたしはこんなことを書いていました。

 

miuphotobrary.com

 

 

実は、自宅サロンで、
「読書サークル」をはじめようと
動き出そうとしていた矢先だったのです。

 

 

 

でも、誰もがご承知の通り、
この後すぐに新型コロナによる自粛生活へ突入。
加えて、それまで都心に出勤していた夫が
完全リモートワークとなり、
(これは会社の方針で、現在も続行中。)
それまで自宅で開催していた
一切のワークショップが
開催できなくなったのです。

 

とは言え、わたしはわたしで、
今年4月から始まった
大学での学びのハードさに
悲鳴をあげていた状況だったので、
コロナ禍はわたしにとって
またとない「勉強時間」を
(ある意味強制的に)
与えてくれたとも言えますが・・・。

 

 

ところで話をこの「読書会」に
戻すのですが、
先日こちらの記事で書いた
某ワークショップを通じて知り合ったメンバーと
この頃は、リアルでもLINEでも
アートや言葉や本etcについて
よく話しています。


来月の集まりでは、
メンバーの中にひとり、
作家さんがいらっしゃるので、
その方の著書についての
「読書会」を行う予定なのですが、
ふと思ったのです。

 

「あの頃欲しかった場、
望んでいたことが
ぜんぶ叶ったなあ・・・」

 

と。


しかも、それは、長い目で見た時、
より理想的な形だと思ったのです。

 

 

自分が理想とする場がないから作ってみた。
あったらいいな・・・を叶えてみたかった。
でも、それが、諸々の条件が重なって
上手くいかなかった。

 

 

でも本当は、
自分主宰でなくてもよかった。



本を読んだり、
ことばを味わったり、
芸術についてシェアしたり・・・

 

そんなただただ楽しいことを
毎回自分が「仕切って」、「声かけて」
「人を集めて」、「場所代を頂いて」
とか、正直、どうでもよかった。 


もしそれが叶うのなら、
自然発生的に生まれて、
年齢を重ねても気軽に逢えたり、
何か起きたときには助け合ったり、
お互いの家を行き来できるような場が欲しい。
それは、地元の身近な人たちと
細々と、でも、和気あいあいと、
上も下もなく、
主催者だとか参加者だとか
いっさい取っ払って、
育んでいきたかった。

 

そう、単純にわたしは
共に在ることに特別な意味だとか、
目的だとかが不要の、
利害関係の枠の外に広がる
「友達」が欲しかった。

 

 

そんなことが、
気づいたらまるっと実現していたのです。

 

 

コロナ禍によって、
足元にある小さな幸せや
本当に望んでいたつながりに気づいた方は
大勢いらっしゃると思いますが、
そこから生まれたモノが
何らかの形になってゆくのが
来年以降なのだろうな・・・と、
ぼんやりと思っているこの頃です。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

無事に実家から戻りました

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金曜日から2泊3日で
愛犬ベルを連れて実家に帰省し、
昨日無事に戻ってきました。

 

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出発の前日は、夕方まで
何も食べずにひたすら寝てばかり・・・

 

「明日は無理かも知れない。」

「ひょっとしたら、明日には
この世に居ないかも知れない。」

 

そんな不安な思いばかりが
頭の中をかすめてゆきました。

 

それでも、夜になってようやく
お気に入りのパプリカを少しかじったので、


「最悪、実家で最期を迎えて、
ベルの亡骸と一緒に東京に帰ることになっても
後悔はしない」

 

 

そう、覚悟を決め、
翌日の早朝、出発しました。

 

 

長時間狭いキャリーに入れられて
苦しそうなベルを励ましながら
どうにかこうにか実家に到着。

 

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みんながベルを温かく迎え入れてくれ、
ベルもリラックスしたのか、
不思議なことに、
最終日の朝、
元気な時、いつもそうしていたように、
妹の膝の上によろめきながらのぼり
「あそんで」のおねだりをしたのです!
本当に本当に驚きました。
そして、満面の笑みを浮かべているではないですか!


更には、ご飯もむしゃむしゃと食べ始めて・・・。
なんだかもう、それだけで嬉しくて、嬉しくて、
泣けてきました。

 

 

実家を発つときに、父と母が、
「お正月も元気においで!ベル!」と
言ってくれました。
「そうだね、そうしようね、ベル!」と
返事をしましたが、
その約束は果たせるかどうか
正直分かりません。

 

それでも、もう一度
元気だったころのベルの笑顔に逢えたこと。
それだけで、本当にもう
ベルにありがとうでいっぱいです。

 

 

だいぶ、現実に気持ちが追い付いてきて、
今は、ベルが安心して
虹の橋を渡れるように、
一日、一日、ベルとの時間を
大切に過ごすことを最優先にしたいと思っています。

 

 

別れ際、母からこんな言葉をかけられました。

 

 

「もう十分やったから、その時が来ても
自分を責めなくていいからね。」

 

と。
泣きそうだったけれど、
泣いたら崩れ落ちそうだったので、
「うん、わかった。ありがとう。」と
応えました。

 

 

たったの3日間の滞在とは言え、
この2か月あまりまともに眠れていなかったのと
不安と心配で身体がずっと緊張状態だったのが
頼れる人が複数いたことでだいぶ緩みました。

 

 

人間、ひとりで抱えられることには
限界がありますね・・・。
 
 
今もどこかで、
抱えきれないほどの心配や不安を背負って
それでもひとりで前に進まなくてはいけない人が
いるのかも知れない。
そんなことを思ったりもしました。

 

 

今回、いろいろな人の支えを感じ、
本当にありがたかったです。
わたしもいつの日か、
そんな支えになれたらと思いました。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき