わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

「あたりまえ」という暴力を振るわない努力とその徒労感

Fujifilm X-T5 with nokton35mm f1.2

 

 年末年始やお盆。所謂、人が原家族と深く関わりを持ち、共に過ごすことが多い時期に、

 

「ご実家に帰省されるの?ゆっくりと楽しんで来てね。」

 

 

等の定型の挨拶を気軽に言わなくなったのはいつ頃からだったのか・・・。

 

 「ゆっくりしてきてね」
 「ご両親も楽しみに待ってるわね」
 「楽しんで来てね」
 「お家で甘えておいで」

 

20代から30代前半くらいまでは、そんな声掛けをされる度に、心の中では、

 

「実家でゆっくり?楽しむ?甘える?え?!一体、何を言ってるんだ?この人は?」

 

と思っていました。ただここで、(昨日の記事にも通じることですが)心のつぶやきをそのまんま相手に言ってしまったら、何やらよくないことが起こるであろうことは学習しているため、機械的なにこやかさで、

 

「ありがとうございます。」

 

と返していたように思います。これが私が後天的に学び、身につけた最適解で、自分を守るための社会的倫理規範でした。

 

 

自分がそんな状態なものだから、自分からは相手に対して、

 

「ご実家に帰省されるの?ゆっくりと楽しんで来てね。」

 

とは、なかなか気安く言うことが出来ません。こういった挨拶は、ヘルシーな方たちにとっては、そこに心がこもってるかどうかはあまり意味がなく、社交辞令的なものだと分かっていても、そこに本心がない以上は嘘をついているような心持になるのです。

 

「あたりまえ」という多数派の規範が暴力になることを知っている人間は、その暴力を他人にはふるいたくないと必死で努力します。ですがその努力をありがたいと思ってくれる人は世の中のだいたい3割くらいなものですから、ほぼ無駄な努力です。

 

この「嘘」が後ろめたさとなって、心理的防衛機制としての「過剰適応」へと繋がっていきます。嘘をついている自分は悪い人間だ。だから償わないと・・・。そんな感じでしょうか。その偽物の優しさを利用しようとする人間は、その偽物臭さを見事に嗅ぎつけます。だから自分は狡猾な人間たちにとっては最高の獲物で、利用されやすかったんだな・・と今は理解しています。

 

他にも、「あたりまえ」の社会規範と言えば、「子どもは可愛い」等もそうでしょうか?私自身、「子どもは可愛い」という社会規範に馴染みが出来てきたのは、17年前に初めて犬を飼い出した時くらいからでした。

 

それまでは、「子どもって可愛いわよね~」と目を細めて小さな子を見ている友人たちの輪に、身が縮こまるような思いで参加していました。「子ども」が・・と言うより、私は「子ども」という存在がもたらす生活環境そのものに、もう二度と関わりたくないと思っていたのだと今は思います。

 

学校の人間関係のカースト
女子グループの陰湿さ
PTAの仕事の擦り付け合い
先生との関わり方
 


考えただけで、うんざり。たとえ「親」という立場をもってしても、二度と学校という場所へは戻りたくなかった。

 

犬という愛着対象が出来たおかげで、「なるほど、皆が言っていた感覚はそういうことだったのか!」と理解出来たわけです。確かに、「子どもは可愛い」のだと。

 

 

クライエントさんの中にも、この「あたりまえ」の暴力の傷つきを話せず、むしろ、理解できなかった自分が悪いんだ・・と自分を責めていらっしゃる方が大勢います。全く悪くないんだよ!とどれだけ声を大にして伝えたところで、それを心底受け入れるには、膨大な時間が必要になります。

 

 

本当は思っていたこと。
自分にとっては「あたりまえ」ではなかったこと。自分にとっての「あたりまえ」だったことを、安心してお話して欲しいなと思っています。

 

きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき

 

 

 

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