父が入院してから1ヶ月になります。
入院した当初は、口から食事を摂ることができなかったために、あとどれぐらい命がもつかは、本人の気力次第だろうと言われていたのですが、昨日、つけっぱなしにしていた点滴がはずれ、3メートルくらいなら、歩行器で移動できるようになったと母から聞きました。
とは言え、食事は出された量の3割も食べることが出来ていないようですし、排泄もカテーテルで行っており、自律は無理とのこと。それなのに、本人は今すぐにでも自宅に帰りたくて仕方がなくて、医者や看護師さん、母や妹を泣いて困らせているというので、どうしたものかとみんなで頭を悩ませています。
父を「生きる」ことに駆り立てているものはなんだろう?
父の様子を見たり、聞くたびにそのことを思うのです。
正直、残り僅かな命を慈しみながら、何かを成し遂げたい!何かを残したい!やり残したことがある!まだ果たせていない使命がある!感謝を伝えきれていない人がいる!逢いたい人に逢えていない!そういう未来への希望が源となっている様にはとても思えない。
どちらかと言えば、病院は寂しい。こんな風になってしまった自分の人生が呪わしい、悔しい。ひとりが嫌だ。こんな自分の最期は認めたくない!死にたくない!死ぬのが怖い!
そちらの方が強いように思えるのです。
「生きたい」も「死にたくない」も、ニーズは同じ「生きる」であるのに、同じようでいて、まったく違うんだな・・・。
父の「死にたくない」でいっぱいになっている心が、「生きたい」と思えるようになるには、どうしたらいいんだろう?
そしていつも思う。
わたしは、どんな最期を迎えるんだろう。迎えようとするんだろう?
わたしと父は、根っこの部分でとてもよく似ているところがある。
だから、父を見ていると、時々すごく苦しくなる。わたしも、今の父のように、人生を呪いながら死の床についたらどうしようと怖くなる。
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
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写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
写真を眺めてほっと一息^^
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父が最後の最期に、私に見せてくれているものを、私がこれからどう消化・昇華していくのかは、私の晩年の大きな課題なのだ。