齢50を前にして、このところ「淡くて永い」人間関係のありがたみについて思うことが増えました。
20代~40代前半くらいまでは、とにかく”がっぷり四つに組んで”、明も暗もお互いをとことんさらけ出し、四六時中、お互いの人生に関与し、存在し得る関係こそが理想の人付き合い、人間関係が豊かな幸せな人生なのだと憧れていたように思います。”憧れていた”と書いたのは、それが一度も叶った試しがなかったからです。でも叶わなくて良かった。だってこれ、まんま“共依存”の関係性なので(苦笑)。
特にわたしの場合、幼少時、本来なら母親から与えられるべき「愛着」のつながりが形成されていなかったため、余計に友人やパートナーたちに、「共感」、「感情の協働調整」を求めることになっていたのだと思います。とにかく”こう”と思った人と、何かをするにつけ、一緒に居たかったし、居て欲しかったのです。
そんな私が、「淡くて永い」人間関係に心地よさを見出せるようになったのは、愛着の治療が進んだおかげもありますが、奇しくも”コロナ禍”こそが、それを一気に後押ししてくれたように思います。
コロナ禍と同時に大学に編入してからと言うもの、物理的な時間と移動の制約が加わり、わたしの(もともと多くなかった)交友関係は、ますます絞られたものとなりました。「あの人にも会わなくちゃ!」、「あそこにも顔を出した方がいいかな?」、そういった人付き合いにおける焦りのような感情が、こちらが望む、望まないに関わらず、強制終了させられたのです。
また、そんな中、高橋和巳先生の見立て8型講座や、IFS(内的家族システム療法)、津田真人先生による「ポリヴェーガル理論」の学び等に集中することで、愛着スタイルの傷つきに、今までとは全く違った科学的視点でアプローチすることができ、自ら解決の糸口をつかむことが叶いました。
俳句を地元で知り合ったメンバーで始められたことも良かったです。俳句は17音と短い言葉で、自分が感動した瞬間を伝えなくてはいけません。「分かって欲しい」、「話をどこまでも聴いてほしい」と言った切迫した欲求は俳句には持ち込めません。これでもか!というくらい、言葉に”想い”を乗せた句でさえ、受け取る側にとっては、まったく違ったニュアンスで伝わっていることもあります。ただ、それが一般的な会話で起きた場合と、俳句の場で起きた場合とは感じ方がまるで違うのです。俳句の場では、「自分は自分、人は人。」「自分と人は違う」をもっと客観的に受けとめることができるから不思議です。気づけばそれまで相手からの侵入を易々許していた「境界線」を、いつの間にか引くことが上手になっていました。「境界線」をしっかり引いた上で結んだ人間関係とは「淡くて」も寂しいものではなく、必死に繋がっていようと躍起にならなくても「永く」続いていくものなのだとようやく安心できるようになったのです。
いま、私が主宰しているオンライン「花拾い句会」で目指しているのも、そのような「淡くて永い」人間関係の場です。俳句の上手い下手を競うことをこの句会は目的にはしていません。学ぶ場所なら、他にいくらでもありますからね。前にも書きましたが、森下典子さんの『日日是好日』に出てくる、茶道教室のような場が理想です。
今朝は開催1回目の選句コメントの公開を行いました。提出した句に対するメンバーさんからのコメントが優しくて、あったかくて、繊細に研ぎ澄まされていて、本当に嬉しかったです。今度、振り返りの会をオンラインで開催しようと思っています。作者にその俳句を詠んだ意図を語っていただく会です。とても楽しみです。
きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき
愛着に傷つきを持つ方のピアグループ
ありおりカフェ、
繊細な方のための読書会、
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随時募集中です。
お気軽にご参加ください。
写真を眺めてほっと一息^^