よくドラマや小説の中に出て来る、こんな件がありますよね。
家が貧乏な子どもが、ある時、クラスメートの給食費を盗んだと疑われる。調べてみると、その子の鞄の中から給食費の袋が出てくる。でも、本当はやったのはその子ではなく、クラスのリーダー的存在の人気者の子で、その子を妬んで仕組んだこと。しかし先生も含めて誰ひとりとして、「私がやったんじゃないです!」と訴えるその子のことを信じてはくれない。
・・・みたいな。
例が極端ではありますが、「私を信じて欲しかった(でも、その時誰も信じてくれなかった)」という傷を抱えている方も、本当に多いなあと思います。
これ、なんでなんでしょうね?
どうしてみんな嘘をついている子の方を信じてしまうんだろう?
どうしてよく調べもせずに、やってないのにやったことにされちゃうんだろう?
わたしも(状況は違いますが)、同じような場面に、何度も遭遇したことがあります。で、そのたびに、自分をこんな風に納得させてきました。
「きっと、私が悪かったんだ」
「私が悪いからこんなことになったんだ」
「何もかも、ぜんぶわたしのせい」
って。
あと、それと同時に、こんな気持ちも育っていったかな・・・
「誰かに言いつけてやりたい!」
「わたしに謝れ!」
「私に詫びて、愛せ!」
でも、こんな二極化したパーツの後ろに隠れているのは、
「私を信じて欲しかったのに!」
という哀しみなんですよね・・・。
よく初めて傾聴にお申込みいただいた方で、何を話せばいいのか分からない・・と仰る方もいますが、私は「あの時、信じて欲しかったのに」や、「本当はそれをやったのは私じゃないのに!」という、喩えるなら「告げ口」的な事柄からでも良いと思っているんです。だって、そこが燻っていて、感情として完了していないから、何度でも、何度でも、表層意識にのぼってきてしまうのだから・・・。
「私が悪かったのかも知れない」
は、とにもかくにも一旦脇に置きましょう。
あなたにとっての真実をしっかり完了させましょう。
きょうも最後までお読みくださりありがとうございました。
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(60分 3000円)
写真家・認定心理士,産業カウンセラー
さとうみゆき
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