わたし歩記-あるき-

心と向き合う写真家の学びの記録*

必要とされるために必要とされたい

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 「必要とされるために必要とされたい」

愛着障害を抱えている人の苦しみの土台は、この観念に尽きるのではないかと思うのです。

 

 生まれたばかりの赤ちゃんは言葉がしゃべれませんから、泣くことで母親またはそれに代わる養育者に対して欲求を伝えます。

 

「お腹が空いたよ、おっぱいをちょうだい」
「ウンチが出たよ、気持ちが悪いよ、おむつを替えて」
「寒いよ、温かい毛布をかけて」
「暑いよ、もっとクーラーの温度を下げて」

 

 

と言った具合です。イギリスの小児科医のウィニコットが言うところの「ほどよい母親」は、赤ちゃんの発するそういった信号を的確に捉え、欲求を一貫性をもって満たすことで、赤ちゃんに「この世界は安全な場所よ。あなたには存在する価値がある。」というメッセージを与えます。また、母親にしっかりと抱きしめられることで、情動調整を学びます。これがエリクソンの言うところの「基本的信頼感」です。あるいは、ボウルビイの言うところの「愛着」になります。

 

 

 次に早い子では2歳を迎える少し手前から第一次反抗期(イヤイヤ期)が始まると、幼児は言葉で自己主張をし始めます。この時期は、今まで一心同体だと思っていた母親を代表する他人との境界線の概念を身に着ける時期。また、「どんな自分でも愛される」という自信が培われる時期。「自分と他人は違う存在」であることを的確に学べた幼児は、後に他人との「意見のぶつかり合い」に出くわした時にも、それを当たり前のこととして、安定して対処ができるようになります。ところが、ここで養育者から、「反抗するなんてむかつく!」と虐待を受けたり、「~~しているときだけ、愛してあげる」等の条件、制限つき、あるいは無秩序に愛されることを学んだ幼児は、他人との境界線を引くことがなかなか学べません。結果、常に相手の反応を気にして、ビクビク生きることになります(脳にも影響が及びます)。相手とぶつかり合うことが「悪」いことだと思っているので、自分の感情を抑え込み、意見が言えません常に相手主導で相手に譲ってばかりの、一見すると「いい子」になるか、または、人と関わることを徹底して避けるようになります。

 

皮肉なことに、学童期においては、この手の「いい子」は、「他の子の気持ちが分かる偉い子」、「よく気が付く子」として先生や、周囲の大人たちからは評価されますので、「そうか!自分の気持ちを抑えて、他人と争わず、他人に合わせてあげていれば、自分は褒められるし、評価されるんだ!」と”学習”がなされ、その性質は益々強化されていきます。そして義務教育期間が終わり、いざ社会へ出た時には、「自分がない人」だとか、「自分の意見がいえない人」だとか、「創造性がない人」、「都合の良い人」という評価をされ、その時になって初めて、「自分は本当はどうしたいんだっけ?」、「わたしは今、何を感じているの?どうしよう、まるで分からない!」、「人とぶつかり合うのが怖い」、「他人の輪の中にいるのが辛い、疲れる」、「自由にするってどうすること?」、「どうしてわたしはいつも人に利用されてばかりなんだろう?」という苦しみに見舞われるのです。でも、本人にしてみたら、必死にむしろ善良にそれまで生きてきたわけで、何をどう変えれば良いのかさえ分からなくなっているのです。

 

 

そして、行きつくのが、

 

 

「必要とされるために必要とされたい」

 

 

この境地なのです。愛着障害を抱えている人は、この「必要とされるため」なら、自分を犠牲にしてでも、なんでもしようとします。なぜなら、そうしなければ、自分には価値がないと信じて疑わないからです。けれど、世の中でヘルシーに生きている人達と言うのは、健全な境界線が引けていて、「自分は自分、あなたはあなた」というスタンスがはっきりしていますので、「必要とされるために必要とされる」ことに必死になっている人を、「ありがたい」と思うどころか、「ちょっと怖い」とか、「そういうお付き合いは求めていないんだけど・・」、「もっと、気楽でいいんだよ」と、かえって距離をおこうとするんですね。ただこれは、本来の健全な人が示す”優しさ”です。それを見た愛着障害の人は悲しいかな拒絶された、見捨てられた、攻撃された、と勘違いをして、ますます傷を深めていく・・・ということに、この問題の悲劇があります。

 

 でも、心が健全な人から距離をおかれる方がまだマシかも知れません。「必要とされるために必要とされたい」という愛着障害の人のパターン利用したり、付け込む人がこの世の中には後を絶ちません。特に昨今の自己啓発系オンラインサロンや、オンラインコミュニテイのトップなどにも散見されますので、注意してくださいね。労働力やお金を搾り取るだけ搾り取って、役に立たなくなったらポイ!結果的に、愛着障害の人はボロボロになり、ますます人を信じられなくなりますが、かつて幼児期に得られなかった人と人との「安心安全」から来る深いつながりを求める気持ちはやむことはないのです。そこに傷つきの中で抑え込んできた「怒り」が常に燻り続け、「愛したい、愛されたい」でも自分を見捨てた相手を「見返してやりたい」、「復讐してやりたい」というアンビバレントな心理状態に絶えず置かれている。これは、本当に生き地獄です。そんな「地獄」にいる自分と、心地よくヘルシーに生きる普通の人とを比べては、どうすることもできない自分のあまりの歪さに圧倒され、そして思うのですよね・・「いっそ、消えたい」って。でも、そんな風に思っていることを、他人には知られなくなくて、というより、正しく理解されるとも思えなくて、今日もとにかく微笑み続ける・・。

 

 

 ざっと、学術的に基づく知識と、かつての自分が辿って来た心理状態を整理しながら書いてみましたが、わたしも正直、愛着障害からの回復は8割程度ではないかと思っています。ただ、今と以前と明らかに違うのは、何らかのトリガーがきっかけとなり心が辛くなってきたときに、「あ、これは、症状だな」、「あ、いつものがきたな」と思えるようになったことでしょうか。IFS(内的家族療法)を学んでからは、「あ、これは、自分の中のどの”パーツ”の声だろう?」と探索できるようになりました。何にせよ、人との関わりで受けた傷は、人とのつながりでしか、もっと言えば、バラバラになってしまった自分と再度つながることでしか癒されないことは確かです。

 

 

 10月から、そういった愛着に問題を抱えている方に対して、何か自分に出来ることを無理なく、出来る範囲でやっていきたいなあ、やっていく時だろうと考えているところです。

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき

 

 

 

 

写真を眺めてほっと一息^^  

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