わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

夢の種をくれた人

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 「これから、大事な話をするから。昨日、泉が亡くなった。」

 

 昨日の朝、いつものように父とのビデオLINEを繋ぐと、開口一番、こう言われました。泉と言うのは、父の5歳違いの弟、わたしにとっては叔父です。従弟家族と共に、アメリカで暮らしていました。最後に会ったのは祖母の葬儀でしたから、もう16年会っていないことになります。

 

 泉叔父は質実剛健という家風を纏った多くの親族の中で、昔から「異端児」と呼ばれていた人物でした。物心ついた時から勉強が大嫌い。「高校にだけは行ってくれ!」と祖母に泣きながら頼まれて入った高校は、「俺、日本人なんだし、英語なんて勉強しない!」と呆気なく中退。その後直ぐに、ヤシカへと入社します。すると生来の手先の器用さと繊細な感度、形にとらわれない、自由な発想と愛嬌の良さを上司に買われて、アメリカのアトランタへと赴任を命じられます(結婚後、わたしが初めて駐在したのも奇しくもアトランタでした)。叔父が所属したチームは後にヤシカのフィルム一眼レフの代表作とも言える「コンタックス」シリーズの礎を築きあげます(コンタックスはわたしも大好きなカメラで今も大事に使っています)。

 

 数年後、ヤシカから帰国辞令が出た叔父は、何を思ったか、ヤシカを突如退社。アメリカのニュージャージーへと移り住み、そこで日本人による、日本企業の為のカメラ修理会社を設立。一時期は、東海岸のメーカーの修理を一手に任される黄金期を築きました。この時期、家族にも恵まれ、皆で何度か日本へ遊びにきてくれました。

 

 わたしは叔父に会うたびに、「この人、本当にお父さんと兄弟なのかな?」と訝るように見つめたものでした。自由奔放で、言いたいことを言い、したいことを失敗を恐れずにしたいようにする・・・。父とは正反対の性格に思えたからです。実際、叔父と話しているのはとても楽しかったです。我が家では大っぴらに話すことがタブーだった、人種的マイノリテイについての話や、恋愛のこと、性のことなどは、ほとんど叔父から学んだと言っても過言ではありません。「みゆきは、将来したいことをなんでもやったらいいんだよ!沢山、男を泣かせる恋をしたらいいんだよ!」とよく言っていました。でも、わたしにとって、叔父からもたらされた最大のギフトは、やはり「カメラ」だったのではないかと思います。

 

 確かわたしが高校1年生ぐらいの頃だったと思います。帰国した叔父からお土産だと言って、小さな正方形のラジオのようなものを手渡されました。

 

「みゆき、いいか。これからあと数年後には、フィルムがなくても写真が撮れるようになるぞ!」 

 

それは、まだこの世のどこにも出回っていない、某メーカーの(改造された)デジタルカメラでした。「撮ってみろ」と言われて、適当にシャッターボタンを押し、撮った風景が液晶画面にありありと残っていたのを見つけた時の感動は今でも忘れられません。未来人からのギフトを手にした原始人になった心地とはまさにこのことでしょう!わたしは(メモリーカードなるものはまだ存在していなかったため)たった3枚しか撮れない、そのデジタルカメラのシャッターボタンを、何度も、何度も切り続けました。改めて振り返ると、この時に感じた気持ちが、わたしの「撮りたい」の原点なのかも知れません。

 

 

 その叔父が、呆気なく、死んでしまいました。実は晩年、叔父は家族との関係がこじれてしまい、亡くなる直前は、知り合いを頼ってアパートメントの地下に住まわせてもらっていたそうなのです。父もわたしも、そんなこととはつゆ知らず、死亡の連絡も、叔父の友人をめぐりにめぐって父の元へ届いたそうです。亡骸についても、どのように手配されるのかも、こちらには、情報がこないために分かりません。

 

 

「最期までほんと馬鹿なヤツだなあ。英語が嫌いだって言って高校やめて、しまいには英語なんか話す国の人間になっちまってなあ・・・。もうあっち(天国)で会うしかなくなっちまったなあ・・」

 

 

自分の最期も見え始めた今、突然舞い込んできた弟の死を父はどう受け止めたのでしょうか。わたしには、分かりません。ひょっとしたら実感なんて湧いてないかも知れません。

 

 

 わたしにとって、夢の種をくれた人。世界の広さ、複雑さ、挑戦する心を教えてくれた人。この出逢いを讃え、叔父の魂へ感謝の祈りを捧げたいと思います。

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき