わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

量の読書からより質の読書へ

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 今年は読書の”質”を磨こうと思い立って入会した若松(若松英輔)ゼミですが、音声講座を既にいくつか受講しています。どの講座も、「どうしてもっと早く受けなかったんだろう!」という後悔と、この場にようやくたどり着けた歓びとで揉みくちゃにされ、学びの濃厚さも相まってなんだかめまいがしそうなほどです。

 

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 ところでゼミに入る前と後で、何が一番変わったかというと、”本とのめぐり合わせ”ではないかなと感じています。ゼミの講座で扱っている著書は、どれも若松さんご自身が人生において影響を受けられた本ばかりなのですが、そのどれもがわたし個人の力では到底出逢えていなかったであろう本だと思われるのです。

 

 

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 須賀敦子の『ユルスナールの靴』もそんな一冊でした。エッセイなのか?美術評論なのか?旅行記なのか?比較文化論なのか?小説なのか?こんなにもジャンルの境界線が不確かな本にかつて出会ったことがあったでしょうか。

 

きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは、行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。

 

全体を通して旧漢字の使用頻度も多く時系列も複雑なため、途中で挫折する要素は其処かしこに転がっていたにも関わらず、そうはならなかったのは、最初の5行だけで須賀敦子の「筆の力」にたちまち魅せられて、最後のページまで運ばれてしまったからに他なりません。

 

 

 250ページほどの本であれば、いつもは丸2日もあれば読み終えることが出来ていました。ところがこの本は完読するのに気づけば2週間以上を要していました。読み終わるのがもったいなかったと言うのが理由のひとつ。そしてもうひとつは、本の中に描かれている国や、場所や、地形や、人物の名前、その人物が描いた絵画や生きた時代背景、初めて見聞きする言葉などを、逐次調べていたからでした。

 

 

 例えば、比喩としてイタリアの銅版画家ピラネージの作品『幻想の牢獄』が引かれているのですが、この作品自体を知らないことには、比喩の比喩さえとんと分からないことになってしまいます。
 

www.google.com

 

 

また、過去にアメリカに住んでいたにも関わらず、ユルスナールが晩年を過ごしたマウント・デザート島がどこにあるのかまるで知らなかったわたしは、今回何度も北米の地図を見返しました。

 

 

en.wikipedia.org

 

 

 別のある時には、”蝙蝠”と言う漢字が読めず、辞書を引いてみると「かわぼり」と読み、コウモリの古名であることに驚かされました。なぜ、コウモリとカナで書かなかったのか?須賀敦子にとっての「かわぼり」はどこまでいっても「かわぼり」として絶対的に存在していたのかもなあ・・などと思いめぐらせるのもひっそりと愉快でした。

 

 

 そんなこんなを繰り返し、1冊の本を読み終える頃には、書かれている内容以上に、本に対する自分の思索が深まっているのを感じ、なんだか心がひたひたと活字の恵に満たされたような豊かな心持ちとなったのでした。

 

 

 

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 若松さんがゼミの図書として推薦している本はどれも著書の人生を丸ごと「よむ」ことを自然と促すような本なのでしょう。いま、志村ふくみさんの『語りかける花』を読み始めていますが、この本もすぐに先へ進むのが惜しい本だと思い始めています。今回は講座と並行してリアルタイムで読んでいけそうなのでますます楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき