わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

型の中で自由になること

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 来月の句会に提出する俳句がぜんぜん思い浮かばず、このところ悶々としています。
詠めるときはどこからともなく言葉の種が降りてきて、一枚の絵のように目の前にほわ~っと現れるのに、それがどうも上手くいかない。
逆に詠みたい映像はしっかりと浮かんでいるのに、それがひとつも言葉にならない感じの時もあって、なんとも悩ましいのです。

 

 

 ところで、俳句を詠むようになってから、以前は表現の「縛り」のように感じられていた「五七五」と言う”きまりごと”に対する見方がずいぶんと変わったのを感じています。それまで比較的長文を書くことに慣れていたわたしにとって、「17文字」と言う文字数は、どう考えても「不自由」で、「不十分」で、「不完全燃焼」をもたらすものとして感じられていました。けれど今では逆に、この「17文字」が織りなす世界の途方もない「自由」さを情けないくらい持て余しているのです。「自由」って何なんだろう?そんなことを思い巡らせるようになっていた時に、この本に出逢ったのでした。

 

 

 

14歳からの哲学 考えるための教科書

14歳からの哲学 考えるための教科書

  • 作者:池田 晶子
  • 発売日: 2003/03/20
  • メディア: 単行本
 

 

 先日、池田晶子著の『14歳からの哲学』を読みました。その中の「規則」と言う章の中で、池田はなぜ「廊下を走ってはいけない」と言う規則があるのか?と言う疑問に対して、こんな言葉を述べています。

 

もし君が、廊下を走りたいのだったら、「廊下を走ってはいけない」という規則なんか必要じゃないと思うだろうし、だから本当は守りたくはないんだけど、規則だから守らなければならないと思うだろう。でも、もし逆に、君がべつに廊下を走りたいとは思わないのだったら、そんな規則はあってもなくてもどっちでもいいはずだね。なぜなら、もともと走りたいとは思ってはいないからだ。だから、たとえその規則があったとしても、その人が走らないのは、規則を守らなければならないから守ってるわけじゃなく、結果として守ることになっているだけということになる。
規則と自由、規則と不自由の関係とは、つまりこういうことなんだ。その人が、規則で禁止されたり命令されたりしているそのことに、関心があるかないかということなんだ。もともと関心がない人に、禁止したり命令したりすることはできないね。なぜなら、その人は禁止されてるとも命令されているとも感じないからだ。

 

更に、この後に続く「自由」と言う章では、

 

何であれ、「自由」というのは、それを「自由」だと主張することによって「自由」ではなくなるんだ。このことをしっかりと覚えておこう。いいかい、「私は自由だ」と他人に対して主張するということは、その人が不自由であるからに他ならないね。

 

とあります。

 

 

 なるほど!と思いました。
「17文字で詠んでください」と言う俳句のきまりが「不自由」だと感じられていたのは、わたしが「17文字以上でなければ表現が伝わられない」と思っていたからで、
それが「17文字でも十分伝えられる」と言う認識へと変わった時、そのことはもはや、「守るべききまり」ではなくなったので、「不自由」ではなくなったと言うことになる。ただその状況をもってして「わたしは自由だーー!!」と叫ぶようなことかと言うと、決してそうではなくて、禁止されてるとも命令されてるとも感じなくなった・・・ただそれだけなのだと思います。

 

 

 そう考えると、「わたしは自由だーー!」と拳を高くして雄たけびをあげたくなるような状況と言うのは、案外本物の「自由」ではないのかも知れません。「自由」を勝ち取ろうとする行動そのものを「自由」だと思いこみ、かえって「不自由さ」の中にじわじわと自分を閉じ込めてしまうようなこと、今はとても多き気がします。

 

 

 自分から見て「外側」だと思っているどこかに行くことを本当の「自由」とは呼ばない。池田晶子の言葉は、そう伝えているようにわたしには受け取れました。

 

 と言うわけで、「17文字の世界」を今日はもうしばらく彷徨ってみたいと思います。

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき