わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

ベルとお別れしてから今日でひと月です

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ベルとお別れしてから
今日で1か月になりました。

 

今、どこでどうしているのかしら?
幸せかしら?
お腹、空いてないかしら?
淋しく、ないのかしら?

 

 

 

実は遺骨の隣に飾っている
遺影の写真以外、
過去のブログを見直すことも
スマホのフォルダに残っている写真も
(無意識的になのか、意識的になのか
自分でも定かではないですが)
殆ど見ていませんでした。

 

今日、久しぶりにこの記事用に、
スマホの中の写真を見返していたら
「ダメだ・・やっぱり、辛い・・・」
と思いました。

ようやく少し
薄皮のはりはじめた悲しみの瘡蓋が
またぱっかりとはがれってしまった感じ。

 

 

四六時中、とにかく悲しい・・
と言う状況は、
最近ではさすがに減ったのですが、
ふとしたきっかけで
あっけなく悲しみの波に浚われてしまう。

 

けれど、わたしがめそめそしている間にも
この世界はどんどん動いているし、
時間はどんどん進んでゆく。

 

 

悲しい気持ちをどこかに表現したい・・
それを欲を言えば、
誰かに受け止めてもらいたい・・
そう思ってみても、
この世界で歓迎されるのは、
「元気であること」
「前向きであること」
「明るい希望にあふれていること」
であって、
「この悲しみにしばらくとどまっていたい」
「思い切り悲しませてほしい」
「亡くしたものを惜しんでいたい」
と言う望みは思いのほか歓迎されず、
またそれを分かっているからこそ
深く大きな悲しみを抱えてしまった人は
それを内に飲み込もうとしてゆく。
「もう、だいぶ落ち着いた?」
と訊かれたら、自動返信の機械のように、
「そうね、だいぶね。」と応えてしまう。

 

 

こんな複雑な心の動き・・・
そして、
透明な膜で隔てられた孤独・・・

 

 

自分が実際に大きな悲嘆を抱えるまで
まったく知らずに生きてきました。

 

 

そんな時に、Twitterから
たまたまシェアされていて読んだ
こちらの記事には
考えさせられ、また
救われた思いがしました。

 

soar-world.com

 

読み始めて気づいたのですが、
入江杏さんは、
来年進みたいと思っている
上智大学グリーフケア研究所で
講師をされている方なのですね。

 

 

入江さんはインタビューの中で、

 

 

悲しみはそんなに特殊なことではなくて、光あるところには必ず影が伴うのです。影があるからこそ光を感じることができる、とも言えます。悲しみは日常に溢れている、どこにでも本当はあるんです。

 

 

と話しています。
ふと、仏教の「芥子種の話」を思い出しました。
亡くなってしまった子供を生き返らせようとして
お釈迦様に助けを求めた母親に、
お釈迦様が、
「町へ行って、芥子の種をもらってきなさい。
ただし、今まで家から死人が出ていない家から
もらってくるのだ」と告げます。
母親が町へ行き一軒一軒家を訪ねて訊くと
どの家からも死人が出ており、
「あ、この悲しみを抱えているのは
自分だけではないんだ」
と悟る・・・と言うお話です。

 

 


また入江さんのお話の中には
「悲しみの水脈」と言うフレーズが出てきます。


私は“悲しみの水脈”という呼び方をしているんですけど、誰の心の中にも悲しみってありますよね。目の前にいるその人の水脈に響くように、毎回話をしているつもりです。

 

 

そう、誰の心の中にも
「悲しみ」はあって、心の奥深く、
複雑に絡み合った地下水路のどこかで
交わっている・・はず。

 

 

 

これまでは、
「未来への夢」や「自己実現」
と言ったことを通して
人と繋がってゆきたい・・
人に貢献してゆきたい・・
そう思って仕事もしてきたし、
生きてきました。
またそれはそれで良かったのだとも
思っています。

 

 

ただ、この先の人生においては、
それだけではなくて、
自分の中の「悲しみの水脈」、
誰かの中の「悲しみの水脈」を大切にしながら、
そこから繋がってゆく出逢いや
優しくて静かな心の交わりに
ひっそりとシフトしてゆきたいなあ・・

 

 

そんな風に考えています。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき