わたし歩記-あるき-

*心理士を目指す写真家の学びの記録*

動物の死を看取ったことではじめて自覚できたこと

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「わたしは自分が思っている以上に
”死”と言うものを絶対的に拒絶、否認し、
怯え、恐れているのかも知れない」

 

 

これが今回ベルを看取ったことで
わたしが直面・自覚させられた
一番の大きな気づきでした。


 

 ベルの死以前にも、
わたしは祖母の死を看取った経験があります。
けれど、人間の最期と、動物の最期、
残された者たちが味わう”衝撃”の
決定的な違いをもたらすのは、
その瞬間を迎える環境にあるように思いました。

 

 

 厚生労働省の人口動態統計によれば、
2016年の段階で、病院または
施設で死亡する人の割合は全体の8割。
反対に、自宅で死亡する人の割合は
3割にも満たないと言われています。
 

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祖母が逝った日のことを振り返ってみると、
朝、「危篤の状態です。」と、
入院をしていた病院からの電話を受け、
家族で駆け付けたところ、
間もなく祖母は息を引き取ったのでした。
病室には私たち家族の他、
医師と看護師が控えて居り、
何か急な変化が起きた際には
すぐに処置に入れる体勢をとってくれていました。



これは何もわたしの家族だけが
経験したことではなく、
我が国の大部分の人々が
同様の状況であることを
上のグラフは示していると言えるでしょう。

 

翻って、動物の死の看取りは本当に過酷でした。

 

動物の死を看取ってみて、
改めて医療専門家が
その場に寄り添ってくれていることが
どれだけ心強く、
「死」と言う瞬間に対して
ある種の”緩衝”となってくれていたのかを
思い知ったのです。

 

 

先ず、がんの告知を受け、
食べ物が口から摂取できなくなったからと言って、
胃瘻の為に入院する・・
などと言うことはありません。
胃瘻の処置はしてもらえても、
自宅でチューブから食事を
流し込むのは飼い主の役目です。

 

ベルは副腎が肥大し、
結果腹水が溜まってしまったのですが、
人間の場合であれば、
すぐに注射器で腹水を抜く処置をするところを、
「かえってベルの身体の負担になるから」と
先生に言われ、膨らんでゆくお腹と
苦しそうなベルをただただ見ていることしか
できませんでした。

 

 

人間の場合、病院で見舞っている以外の時間は、
家族は専門家に任せることができ、
ひとまず通常の生活を送る時間を確保できます。
でも、動物の場合、それは不可能です。
24時間、動物の苦痛から目を反らすことはできず、
長い夜が明け、動物病院にサポートを求める
電話をすることだけが命綱かのように過ごす日々。

 

 

わたしは日増しに弱り、
死へと一心不乱に向かってゆくベルを
傍で見ているだけで
頭がおかしくなりそうでした。
今だから正直に告白しますが、
「この場から逃げ出したい」と
何度も思いました。

 

 

と同時に、「死」と言うものに対し、
こんなにも拒絶反応を示している自分にも
驚き圧倒されていました。

 

 

ある時、ベルのことで大変お世話になった
同じ大学の心理学部で学ぶ友人が、
こんなことを言っていました。

 

 

核家族化しすぎたことにより、
死が身近でなくなっている故に
死に対する我々の免疫がなさ過ぎて、
動物としての定めを
突きつけられると衝撃が
大きいのかもしれないな・・・

 

 

ああ、これだ。
まさに、これだ。
そう思いました。

 

 

先ほどの厚生労働省の調査の話に戻りますが、
1951年ごろまでは、今とは真逆で、
自宅で亡くなる方が全体の8割だったそうです。
恐らく当時の方が人間の「死」を
「生」と連続しているものだと
受容できる力があったのではないか?
そう感じてしまうのは、
思い過ごしでしょうか?

 

 

「死」を受け止め、受け入れる力が、
こんなにも脆弱な自分であることを自覚した今、
少しずつでいいから、
現在の「人生地図」をより拡大し、
「生きること」への向き合い方の変容が
もう一段階求められる年齢になったのだなと
感じています。

 

 

 

 

きょうも、最後までお読みくださり
ありがとうございました^^
さとうみゆき