わたし歩記-あるき-

心理カウンセラーでもある写真家のブログです

ペットロスについて思うこと②

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ベルとわたしは、アメリカで出逢いました。
2003年から2009年まで過ごした、駐在先。


夫婦仲がガタガタのまま渡米した上に、
慣れない海外での暮らし。
夫の会社での地位が、
そのまま現地の妻の人間関係のカーストになる・・
いったい誰に本音を話せばいいのか?
誰と安心して感情の共有をしたらいいのか?
日本に居た頃よりも、ある意味
日本の嫌な面が凝縮されたような生活に
私は身も心も日に日に疲弊し、
ボロボロになっていきました。

もともと広く浅い、
社交辞令や美辞麗句を振りまくような
人付き合いが苦手だった私にとっては、
夫婦そろって仲良し仮面をつけたような
パーテイー文化のアメリカは
ちょっとそこまで外出するだけでも
ひどくストレスなものに感じられました。
そこへきて更にわたしを追い詰めたのが
アメリカ特有の「車社会」でした。

人にはそれぞれ努力では
どうにもならない苦手なことがあるものですが、
私にとってそれは「運転」でした。
渡米が決まってから3カ月ほどで
免許を取ったので、まともな路上デビューは
アメリカででした。

エンジンをかけてから、
車を動かして無事に帰宅するまでは
毎日、命がけ。
車線変更も
「この道路では、2つ目の信号を過ぎてから」
「ここの道路では絶対に右斜線は使わない」
など、長いメモ書きを車内に貼り付けて
運転をしていました。
そして、その通りにできないと
迷子になってしまったり、
ひどいときだと車道でパニックになって
動けなくなってしまったこともありました。

 

とにかくわたしにとっての
アメリカ生活のスタートは、
数年、大変厳しいものでした。

 

そんな我が家を更なる困難が襲います。
未明に押し込み強盗にあったのでした。
森の中を切り崩して建てられた
きちんとセキュリテイのある
アパートメントでだったにも関わらず、
半地下階だった我が家は裏手の
オープンテラスの入り口を
見事にぶち壊されて侵入されたのです。
夫は財布・カード類、私物のパソコンと車を。
(車はガソリンが少なかったため、
途中でガス欠したらしく、後に戻ってきました)
わたしはゴールドをはじめ、真珠、
貴金属を軒並みやられました。
(でもダイヤモンドのマリッジリングだけは
盗られなかったと言う摩訶不思議)

 

朝になって夫が警察を呼び、
一通りの手続きをし、
銀行でカードの解約などを事務的に済ませ、
ようやくわたしも我にかえりました。


それから3日後、同じ部屋には
もう住んでいられないからと、
アパートメントの管理会社に
部屋の変更を申し出て、
それが受け入れられたために、
我が家は敷地内にあるベランダの無い
3階の部屋に慌ただしく引っ越しました。

 

 

引っ越し後、災難の見舞いに訪れる人達が
口々に、
「命があっただけでも本当に良かったんだよ」
「二人とも、ものすごく運が良かったんだよ」
と、実際に強盗を経験したわたしよりも
シビアな顔をしているのが印象的でした。


何故なら、わたし自身は、
周囲の人たちがわたしの経験に対して
発しているほどの恐怖を感じることができず、
その時のことをまるで
テレビか何かの映像をみているかのように、
冷静に何度でも
語って聞かせることができたからです。
そうまるで、落語か何かの決まった
演目のように・・です。

 

そのくせ、夜中にささいな物音が聞こえたりするだけで
ビクっとして起きてしまうようになりました。
感情と身体の反応が、どうもちぐはぐなのです。
でも、感情的には「こわくない」のだから
わたしは大丈夫だ・・・そう漠と思っていました。
(このような状態こそが
「PTSD」と呼ばれるものなのだと知るのは、
それから約10年後になります。)

 

 

ベルが我が家にやってきたのは、
この押し込み強盗事件から
半年が経過した頃でした。

 

 

当初は、「犬」を飼っている家屋には
強盗が入る確率が低いとの評判を聞き、
だったら犬でも飼ってみようか!
と言う気持ちでした。

 

 

街はずれにある小さくて小汚い
ペットショップに行くと、
「乳離れして8日目なんだ」
と店員が指さしたガラスケースの中には
3匹の赤ちゃんシーズーがいました。

 

見ると、2匹は元気にじゃれ合って遊んでいます。
でも隅っこの方で、ひとり、
小さくなって、もう夢も希望もない・・
そんな淋しい顔をして
ぎゅっと固くうずくまっている子がいます。
それがベルでした。

 

「この子をここから出してあげなくちゃ!」



咄嗟にそう思い、
「この子がいいです!決めた!」
と店員に声をかけている私がいました。
まったく悩まなかった。
ベルに自分の心象を
重ねていたのかも知れません。

 

 

その日からベルとの生活が始まりました。
わたしはそれまで動物を飼ったことがなかったので
それは初めて預かった「命」でした。

 

正直最初は、「こんなにも大変なのか!」
と、育児・・ならぬ育犬ノイローゼに
なりかけたほどでしたが、
それでもこの子を守ってゆくんだ!
私には、何があっても
私が手放さない限り、
どれだけ不器用に愛情を注ごうとも、
共に一緒に生きてゆける仲間ができたんだ!
と言う歓びがありました。

 

ベルが我が家にやってきたことで、
それまで繋がれなかった人とも
沢山知り合うことができました。
わたしが苦手とする社交を
ベルは何なくやってのけ、
ベルのお陰で現地での友達も増えました。


途中、アメリカ国内で夫が単身赴任となり、
わたしは独り暮らしを余儀なくされましたが、
ベルが居たから怖くなかった。


次第に、夜中に身体を襲ってくる緊張感も和らぎ始め、
人間関係で辛いこと、
淋しいこと、
理不尽で泣きたいことがあったとしても、
自分が何者にもなれなくても、
世の中にとって価値ある人間であれなくても、
仲間が誰もいなくなっても、
「私にはベルがいてくれる」
「私はベルのお母さんなんだ」
右をみても左を見ても
わたしなどいなくても普通に回ってゆく
世界の中で、ベルだけは
わたしを絶対的に必要としてくれている・・・
その想いだけで、最後のギリギリのところで、
自分を保っていられたのだと思います。

 


そんな風に、
これまでずっと生きてきた私にとって、
迫りくるベルの死と言うのは、
単なる愛玩動物の死と言う説明では
済まされないものになっていました。

 

たとえそれが、心理学的には
「依存症」と呼ばれるものであったとしても、
この14年間、ベルとの日々が
わたし自身の「自我」をどうにか保ち、
わたしの想像を超えたところで、
世界とのつながりを築いてくれていたのです。

 

わたしにとって、
「ベルの死」を突き付けられた瞬間と言うのは、
大切な伴侶・家族の死、と言う意味の他に、
もう一つ、脆弱なわたしをどうにか支えてきた
14年分の「自分自身の死」、
それから、この先も、
生きている限りは続くであろう
「ベルのいないわたしの人生の死」を
宣告された瞬間だったのかも知れません。
 

 

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